今日はもう暑くてくたくた。
昨日,ある方から私のブログ記事『歴史的仮名遣いについて』についてメッセージをもらった。その返信をそれなりにきちんと書いたつもりである。このテーマに関する私のブログ記事は,「正字正仮名」信奉者には頭に来るはずである。それゆえか時おり,イヤガラセめいた書き込みやメールを受け取ることがある。内容によってはゴミ箱行きにしている。昨日の返信を書きながら,反省もした。
考えてみれば,「正字正仮名」信奉者(長いので,以下「正信」と略する)は誰の迷惑になっているわけでなし,その考え方についてことさら論難しても詮無いなあということ。「正信」なんて「圧倒的小数派」なんだから,多数派の現代仮名遣いの立場で非難するなんて「弱い者苛め」ではないか。別にいいじゃないか。「なんちゃって旧字旧仮名遣い派」(「正信」に感染して,僕は伝統を守るんだといきまいて,間違いだらけの旧字旧仮名テキストを恥ずかし気もなく晒しているブロガーのことを,私は自分なりにこう呼んでいる。こいつも長いので,以下「な派」とする)が増殖したって多寡が知れている。「な派」が秘かに嗤われるだけなのだから。なんで「正信」の悪口をわざわざ書きたてるのか(「正信」の馬鹿さ加減については,萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』書評や記事『旧字・旧仮名雑感 — Wikipedia の議論について』で書いたので,そちらを参照)。「正信」同様,下劣ではありませんか?
第一の理由は,萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』についてクソミソに書いた際,ネットでその評判を検索・閲覧してみると,好意的なものが大多数だったこと。そのなかには「な派」になってしまったブロガーも結構いたこと。それで,危険な臭いを嗅いだ気がしたのだ。つまり,「正信」は小数派なのに実は大いなる影響力を持っていることを知ったのである。おまけに,それら「な派」は,ある主導的「正信」サイト(私はその「権威主義」をここで言及したことがある)の意見に唯々諾々と従う人ばかりなのだ。その主張は「正しい表記を使ふのが本當の日本人」,「正假名は合理的」,「新假名は國語の傳統を破壞した」,「新假名と憲法は敗戰のどさくさに紛れた押付けだ」,「正假名はカッコいい」,「字音假名遣ひは嚴密でなくてもよい」とまあ,判で押したように「まったく同じ」。寒気がするんである。ここまで右へ習えとなると,一種独特の宗教団体,教祖様に従う右派集団のように見えて来たのだ。
教祖様がある人の悪口を書くと,信徒君が自分のブログで同じ悪口を書く。私にイヤガラセも来るわけだ。それも,匿名なのはよいとして,違うメールアドレス(どれも gmail.com,yahoo.co.jp,hotmail.co.jp などのフリーメール・ドメインであることはいうまでもない),違うハンドルネームで「同じ IP アドレス」から。当然というか,ことごとく Windows ユーザ。なるほど。でも,別に危険ということでもないので「受け流して終わり」なんだけど。
私も歴史的仮名遣いが好きで,misima なんてツールを公開している。「正信」のひとりだと思われてもしようがない。自己撞着してませんか? そう,私自身が「正信」だと誤解されたくないための弁明 — これがいまひとつの,大きな理由である。ただし,いくら弁明しても,実際はそれが読まれやしないわけで,「な派」の一部は,私の自己撞着めいたプログラムを使って恥を晒しているかも知れない。そう思うと,背筋に冷たいものを感じる。そのうち misima をユーザ登録しないと使えないようにするつもりである。
別にどうでもいいじゃないか。今日は疲れた。仕事もうまくいきません。愚痴も出ます。