先日,森鷗外の『仮名遣意見』をめぐって歴史的仮名遣いの保守主義云々について書いた。「正字正假名」なるものを信奉するひとの主張には,その「國語の保守主義」,「合理的」,「カッコいい」なる馬鹿げた理屈において,私はどうしても与しかねるからである。私は日本語に関心を持つ者は歴史的仮名遣いを知っておかねばならないし,読み慣れておく必要があると認める。 misima 旧仮名遣い・旧字変換支援を公開しているのも,歴史的仮名遣いへの関心と愛着から来ている。 misima に取り組むに際して,何冊もの歴史的仮名遣いに関する書籍やインターネット・リソースを参照して研究して来たし,その過程で仮名遣い変更の功罪についても少しは考えるようになった。最近多く見られるようになった,歴史的仮名遣いで文章を書くひとに対しても,私はある程度の理解をもっているつもりである。でも,歴史的仮名遣いを尊重したいと思う気持ちとそれを使わなければならないということとは違う。
「正字正假名」派は言葉にうるさいと自認するひとが多いようである。古い日本の文化を愛し,本人のプライベートや仲間内の営みにおいて「正字正假名」で文章を発表しているのは悪いことではない。しかし,「正字正假名は日本の伝統である一方,現代仮名遣いは敗戦のどさくさにまぎれて断行された愚策だ,すべからく正統表記に戻すべきだ」との彼らの意見には私はまったく承服しかねる。「愚策」がこんなに広く受容されかつ長く続くものだろうか? 歴史的仮名遣いに回帰するなんてことが現実にできるのだろうか? 「難しそうに見える歴史的仮名遣いは実は易しい」なんてことを平気で宣う「正字正假名」派がいる。「現代仮名遣いのほうが合理性に乏しくて書くのがたいへん!」なんて心にもない浅はかな衒学を弄するものさえいる(彼は学校でいったいなにを習って来たのか?)。ところが,歴史的仮名遣いは本当に難しいのである。
歴史的仮名遣いの本当にやっかいな点は字音仮名遣いにあると私は思う。字音仮名遣いとは漢字音の歴史的表記のことである。これだけは misima のプログラミングにおいて溜め息とともに実装を諦めなければならなかった歴史的仮名遣いの奥義である。「正字正假名」一派が「実は易しい」なんて言い草ができるのは,彼らが字音仮名遣いの難しさを無視しているからだと思われる。
字音仮名遣いについては漢字で書けばよいので気にしなくてよい,などと愚かなことを言う「正字正假名」派がいる。和語になった漢語(例えば和語「さようなら」の元になった漢語「左様」)の存在は,漢語と和語の表記の境界を明確化できずこれらを連続的に捉えなければならないことを示しており,よって字音仮名遣いを無視できないことは明らかなのである。「さやうなら」の歴史的仮名遣い表記は「左様」の表記が「さやう」であるという字音仮名遣いに準拠してはじめて成立するのである。字音の表記については音の原則に準じてよいと「気にしない」派が言うとすれば,「さようなら」は「正字正假名」でも「さようなら」と表記してよいということになる。漢字で書くことで字音仮名遣いを無視できると言うのなら,「さやうなら」は「左様なら」としか表記してはならぬということになる。字音仮名遣いを「気にしなくてよい」などというのは歴史的仮名遣いの考え方として一貫性がないどころか矛盾しているのである。そしてもし逆に字音仮名遣いも考慮しなければならないと言うのであれば,「正字正假名」はとても習得できる代物ではなくなるであろう。
「正字正假名」に国語表記を戻すとする。辞書はどうなるか? ここに仮に「正字正假名國語辭典」があるとする。「妾」(ショウ=めかけ,そばめ)をそれで引こうとするとまず現代人には引かれないであろう。「ショウ」と読むのは知っている。ところがこの「辭典」には「セフ」の見出しで出ている。「シ」—「ヨ」—「ウ」と辿っても出て来ない。「妾婦」は「セフフ」で引かないといけない。まず漢字字典で画数なり「女」の部首なりで「妾」を探し出し,それが「セフ」と表記されることを突き止め,やおら「正字正假名國語辭典」の「セフ」のインデックスを引き当ててはじめて「妾」や「妾婦」の語義説明に到達できるわけである。こういう漢字がさらに複合している熟語になると忙しい現代人はもういやになってしまうはずである。
嘘だと思うなら,ちくま学芸文庫から出ている明治時代の国語辞典『言海』で「キョウ」・「ギョウ」・「ショウ」・「ジョウ」・「コウ」・「ゴウ」・「ソウ」・「ゾウ」等の音を含んだ漢語を,思いつくまま試しに検索してみるがよい。例えば,「合法」,「脅迫」を引いてみよ。スローフード,スローセックスならぬスローランゲージが満喫できるはずである。「字音仮名遣いは気にしなくてよい正字正假名」派は,なぜそんな考えに至ったか? それはこの問題を隠したいからに他ならない。確信するに,彼らは,字音を知るために現代仮名遣いで書かれた現代国語辞典を引いている狡い人達である。『言海』を使ってみると,それがわかるはずである。
歴史的仮名遣いは和語だけでなく漢語の表記にも準拠してこそ「歴史的」なのである。「正字正假名」に戻すならこの字音仮名遣いをも引き取らないといけない。「実は易しい」などと宣う教養ある「正字正假名」派の尻馬に乗ってよいものだろうか?
「私はこゝにゐると言はう」程度の歴史的仮名遣いなど,「実は易しい」派の宣うとおり,それこそ子供でも習得できる易しいものである。福田恆存『私の國語敎室』などの俗流国語学本を読めばすぐにでも実践できる。それで「カッコいい」気分になれるかも知れない。しかし上記のとおり,字音仮名遣いをも習得する,あるいは受け容れる必要性に思い至ると,もはや歴史的仮名遣いに戻せなどという軽はずみにして大それた発言はできなくなるはずだと私は思う。歴史的仮名遣いに回帰するような国語政策は,現代仮名遣いへの切替えにおける往時の混乱とは桁違いの世の反発に迎えられるに違いない。それこそ亡国の愚策であると。
お莨
優しいとは思はないですね。歴史的仮名遣ひ。
教はケウで強はキヤウで今日はケフですから,ルビをふるとなると国語知識がないと難しいでせうねえ。
大正時代にも植民地での日本語教育の難しさへの対策や国語辞典の字引対策として表音化を進める動きがあり,今のやうな新仮名原案もあつたさうですね。
まあ実際問題,あまりに歴史的仮名遣ひが今の人に難しさうに見える,実際難しいから,今の人はだれも使はうとしない。とすると折角,日本語の正しい表記を,契沖が間違つた定家仮名遣を改め,和字正濫抄を記し,国学者が正しい日本語を復古したのに,その歴史が風化するばかり。なので歴史的仮名遣は簡単だよ。といつてしまふんでせう。実際難しいのに。思ふに,料理みたいなものでせう。料理が出来る人は料理は簡単だよ,なんてレシピを見せるが,厨房にたつたことがないひとにしてみれば,難しくみえる。またその普通に料理できる人でも本格的な料理はできない。えうするに本格的な漢字のかな表記ができない場合がある。要を,えう,と読むことを知らないと本格的な料理,仮名遣ひはできない。
さようならを,さよなら,といふとき,さやなら,にはならない。これも難しいですよね。~だらう。といつても,~だろ,と略すときに,~だら,と書かない。これは表音にならざるとえない。
かう考へると合理性利便性はないでせうね。まあ,僕は日本語の美しさといふ面と,国学の徒として先人国学者の手振りに習ふといふ面で使つてゐますが,奥深くて非常に面白いです。古代日本人が,今日のことをけふと読んでゐただだけでも悠久の歴史の流れを感じます。
でも,利便性だけを追求してゐるといふことは,まあいつてしまへば新仮名は「ゆとり教育」のやうなものでせう。円周率を3にしたやうなものでせう。
おつしやるとほり,今の合理性を求める風潮にあつてはこの仮名遣ひは難しいでせう,維新でも起こらない限り。
まあ,歴史的仮名遣ひは簡単だよ,といふ文言は,書店にある「懐石料理は実は簡単である」といつたものと同じで,懐石料理は難しく見えてしまひ(実際難しいが)だれも懐石料理をせずにどんどん伝統が風化していくのを恐れて,簡単だよ,といつて本を手にとつて,とりあへず少しでいいからやつみてほしい,と願ふ心理と同じなんぢやないでせうかね。その正仮名サイトへのリンクがないので,そのサイトがどんな感じでさういつたのかどうかわかりかねますが。
まあなににせよ,「私は」が「私わ」とならないやうに願つてをります。
おたばこ
言い忘れましたが,戦後だれも文句をいつてゐないといふのは,文句をいへる時期に占領軍が文句をいはさせなかつた,といふのもあるでせう。農地解放やら押しつけ憲法やら,当時は文句をいへなかつた。そんな混乱期に新仮名採用をした。簡単だから,受け入れられた。合理的だから受け入れられた。しかしながら,その分伝統は失はれた。合理化による伝統文化破壊といふのは今に限つたことではありませんが。
これだけいひたかつたので,追記いたしました。それでは,さやうなら。
isao
お莨様,おたばこ様
ご兩名は同一人物でいらつしやいますよね? どちらも「おたばこ」様ですから。まとめてご返信させていただきます。私も歴史的假名遣ひでお應へします。普段まつたく遣ひませんが。
私は,受け取つたメールや書き込みのメールアドレスが實在するものかをチェックしてをり,實在しない場合は惡意のあるスパムとして「ゴミ箱行き」と判斷する,さういふサーバー運用をしてをります。ご記入いただいたアドレスが實在しなかつたので,また二通とも "Your name" ともどもそれぞれ違ふものであつたので,最初はコメント・スパムかと思つてしまひました。
しかし,讀んでみると,どうもスパムではないやうなので,かうして返信してをります。たくさん書いてくださいましてありがたうございました。私の個人的意見と合はない部分がありますが,興味深く讀みました。以下,お莨様,あるいは,おたばこ様の文面の引用は適當に改行を插入してゐます。ご了承ください。
>かう考へると合理性利便性はないでせうね。まあ,僕は日本語の美しさといふ面と,国学の徒として学者の先人
>国学者の手振りに習ふといふ面で使つてゐますが,奥深くて非常に面白いです。古代日本人が,今日のことを
>けふと読んでゐただだけでも悠久の歴史の流れを感じます。
日本語の美しさといふものは,私も身をもつて感じます。だだし,私にとつてそれは國語表記の問題とはあまり關係がなささうです。
私も歴史的假名遣ひが好きです。古典は歴史的假名遣ひで校訂されてゐるはうが,それに慣れ親しんでゐるだけによいと思つてゐます。misima といふ弊サイトの歴史的假名遣ひ・正字體變換ツールは,まあ歴史的假名遣ひへの一種のオマージュといつてよいかも知れません。
しかしながら,もう一方で,一部の原理主義的「正字正假名」信奉者を嫌惡してゐます。現代の表記ルールを見下し,國語表記でもつて個性を主張するに過ぎない幼穉な社會的・文化的逃避者として,私は彼らを嗤つてをります。私には,なんの迷惑もないので,構ひませんけれども。
「古代日本人が,今日のことをけふと読んでゐた」— 殘念ながら,私は,古代日本人の知り合ひがありませんので,こんにちの「キョウ(今日)」をどう發音するのか聞いたことがありません。でも,そのやうな「學説」があるのは知つてゐます。「悠久の歴史の流れ」をお感じになつてゐる感性を大事になさつてください。
>でも,利便性だけを追求してゐるといふことは,まあいつてしまへば新仮名は「ゆとり教育」のやうなものでせう。
>円周率を3にしたやうなものでせう。
現代假名遣ひを「円周率を3にしたやうなもの」,「ゆとり教育」と捉へる理窟がわかりませんでした。このやうな譬喩は誤解を招きませんか?
「利便性だけを追求」すれば圓周率を 3 に丸めたりはしないのではないでせうか。それなら「π」とするでせう。このはうが計算しなくてよいので壓倒的に「利便性」があります。しかも眞。ゆゑに事實,高等學校の數學ではさうなつてゐます。圓周率を 3 と敎へるのは「利便性」のためではなく,「子供の計算能力」を過小評價してゐるだけです。もちろん,現代假名遣ひは日本人の識字能力を過小評價したものではありません。
一方,つまり歴史的假名遣ひは 3.14 でせうか? それとも 3.141592 でせうか? πでせうか? でも,だとしたらそれはなぜ? その譬喩の意味が私には理解できませんでした。
現代假名遣ひにおける「簡略化」を單に否定するといふことを意圖してをられる。えうするに,私はこの譬喩をさう受け取りました。でも,ならば,傳統ある變體假名を,明治政府はどうしてやめてしまつたのでせうか。當時は許すべからざる包攝,「反傳統」だと思ふ人もゐたのではないでせうか。漢字は何千・何萬とある一方で,たかだか二三百程度の變體假名がどうして廢止の對象になつたのでせうか。これは「簡略化」以外の何者でせう? つまり,歴史的假名遣ひにも音韻に基づく「簡略化」があつたといへるのではないでせうか。歴史的假名遣ひもまた,ある意味で傳統を破壞したのです。ここに,明治における標準 — 歴史的假名遣ひ — においてすら,「傳統」云々よりも文化的統制・規則としての意味が強かつた,といふ徴候が認められるやうに思ひます。
「ゆとり教育」はいま社會的反省の對象になつてゐます。現代假名遣ひはさうはなりさうにありません。假名遣ひは,圓周率が 3 なのか 3.14 なのかといつた智識の精度・範圍の問題ではなく,ルール・規則・決め事だからです。「ゆとり教育」と假名遣ひの問題とは根本的に違ふと思ひます。いや,これは譬喩だからそこまでの意圖はない,といふのなら,考へ方が穉拙に過ぎます。
>まあ,歴史的仮名遣ひは簡単だよ,といふ文言は,書店にある「懐石料理は実は簡単である」といつたものと
>同じで,懐石料理は難しく見えてしまひ(実際難しいが)だれも懐石料理をせずにどんどん伝統が風化して
>いくのを恐れて,簡単だよ,といつて本を手にとつて,とりあへず少しでいいからやつみてほしい,と願ふ
>心理と同じなんぢやないでせうかね。
難しいのを知りつつ簡單だと言つてみせてゐる。なるほど。最近の間違ひだらけの歴史的假名遣ひ・正字體使用者(私はさういふブロガーのことを「なんちやつて舊字舊假名遣ひ派」と呼んでゐます)は,さうして騙されたといふ譯ですか。
歴史的假名遣ひと「懷石料理」との譬喩關係がよくわかりませんでした。「懷石料理」は,食材の目利きこそが難しいのであつて,そのレシピは實際,簡單なんぢやないでせうか? 「難しく見えてしま」ふとしたら,それは「懷石料理」にはシステマチックなレシピがないがゆゑぢやないでせうか。敎へられれば實は誰でもできるのに,技を秘匿するのは,日本文化の一特徴ですね。また「懷石料理」は「風化」などしてゐませんし,料亭に行けばいつでも食べられます。
>言い忘れましたが,戦後だれも文句をいつてゐないといふのは,文句をいへる時期に占領軍が文句をいはさせ
>なかつた,といふのもあるでせう。農地解放やら押しつけ憲法やら,当時は文句をいへなかつた。そんな混乱
>期に新仮名採用をした。
私も戰後の國語改革の必然性をなかなか理解できなかつたクチです。最近の話題では,三島由紀夫全集の新版が現代假名遣ひになつたことに大いなる疑問をもつてをります。それは三島自身が正字體,歴史的假名遣ひに拘つてゐたからです。
でも,戰後 60 年,もう新字・新假名は完全にニュートラルで確固たるものになつてしまひました。規則とはそういふものです。私自身は世の中の規則に從つて書くことが大事だと思つてをります。文章は,讀む相手の立場で書く。これが基本だからです(いまはこちらの原理に從つています。貴方様にだけ,といふ譯です)。さうして傳統もここから生まれるものであると信じてゐます。
三島全集新版の問題についても,さはされど,文學作品が現代の正書法規則に「改められて」出版される習慣は,日本に限りません。ロシアがさうですし,歐米でも普通のことではないでせうか。本當に研究したい人は,初出の版,あるいは原文(マニュスクリプト)にあたる譯です。ところで,漱石の原稿(「原文」ですね)には變體假名が多く用ゐられてゐたことをご存知でせうか。なのに出版される段階で變體假名は改められました。「正字正假名」の人達は,歴史的假名遣ひによる作品が現代假名遣ひに改められて出版されるのを改竄だ,冒瀆だと批難します。でも,往時にしてさうだつたのです。「正字正假名」の人達の事實を無視した「原文」主義に呆れませんか? かういふのを衒學的といふのです。
表記はその作家の文藝の本質でも,傳統の本質でもないといふのが私の考へです(もちろん三島のやうに表記に拘つた作家の場合,そのこと自體を「彼にとつて意味ある現象」として扱ひます。その表記そのものが「正しい」かどうかなんて考えずに。いはんや,表記が三島文學の本質とは考へないでせう)。だつて,わが國の偉大な古典がすでにさうだつた譯ですから。それぞれその時代の統一されてゐたとは言ひ難い表記で書かれてゐるのですから。それについては折に觸れてゴタゴタ書いた氣がします。
國語改革,憲法を政府が米國に強要されたといふ説は,あり得さうなことだと思はれます(最近,憲法については「強要」が否定されつつあります。小関彰一著『日本国憲法の誕生』岩波書店,2009 年刊 が面白かつたですよ)。でも,日本國が國の大事を自分で決められないといふのも國民性のひとつではないでせうか。天皇陛下に默つて責任の所在を曖昧にしたまま眞珠灣攻擊を敢行し,終戰も内閣で決斷できず陛下に泣きつきました。日本は戰前からさういふ優しい人たちの國なのです。それでよいと思ひます。
新憲法については,その策定經緯がいかなるものであれ,天皇陛下が國民と世界に對して宣明した約束であり,原則,これを變へてはならないものだと私は考へてゐます。「保守」とは,さういふものです。でも,日本人は自己否定の好きな優しい國民なので,今後どうなるかわかりませんね。變化の好きな民主黨が變へてくれるかも知れませんよ。
「農地解放やら押しつけ憲法やら,当時は文句をいへなかつた」— 誰か身内からさういふ事情を聞きましたか? さう主張する右寄り現代評論家の本を讀んだだけぢやないですか? 戰爭で疲れた當時の一般國民は,嬉々としてかどうかは別として,これらに從つたのです。少なくとも,地主・軍屬のやうな舊態權力側以外で,「強く反對した」との民衆レベルの世論があつたなんて,私は聞いたことがありません。「反對」に對して彈壓に類することがあつたならば,記録に殘るものです。さういふの,讀んだことあります?
>その正仮名サイトへのリンクがないので,そのサイトがどんな感じでさういつたのかどうかわかりかねますが。
言ふまでもなく「その正仮名サイト」は,上で言及した「原理主義的『正字正假名』信奉者」の代表です。「どんな感じでさういつたのかどうか」なんて氣にする必要はないやうに私は書いたつもりです。ただの惡口ですから。リンクを貼らないのは,ただの惡口を書いてゐるだけなのでその方に失禮だからです。くすつと嗤つたくらいにお受け取りください。弊サイトはただの「パンピー」のサラリーマン・ブログですよ。この不況で愚癡も出ようといふ譯です。
具體例に即してゐないぢやないかと反論されるのなら,「歴史的假名遣ひは簡單だ,字音假名遣ひは氣にしなくてよろしい」といふ主張を實際にしてゐる書籍を擧げておきます。萩野貞樹といふ似非國語學者による『旧かなづかひで書く日本語』といふ本です(私には,萩野貞樹をはじめとする「原理主義的『正字正假名』信奉者」は,福田恆存 — 英文學者です。俗流國語學者でもあります。假名遣ひに關する國語學の論文で引用されることがないにもかかはらず,この方は影響力といふ意味で尊敬に値します — のただのエピゴーネンにしか見えません)。もうお讀みになつたかも知れませんね。これは公的に刊行されてゐる書籍なので,私はこのブログでさんざん惡口を書きました。「象牙の塔に籠りやがつて」的な惡口を。「事實を踏まへないウソツキ傳統擁護論者」とまで書いてしまひました。訂正する氣にはいまのところなつてゐません。國立大學運營のために税金を拂つてゐるサラリーマンのわが身からすれば,この不況で愚癡も出ようといふ譯です。
>簡単だから,受け入れられた。合理的だから受け入れられた。しかしながら,その分伝統は失はれた。合理化に
>よる伝統文化破壊といふのは今に限つたことではありませんが。
ご心配には及びません。歴史的假名遣ひが忘れ去られることはありません。安心しませう。現代假名遣ひは「伝統文化破壊」といふほどの大したことではないと思ひます。
また,新假名遣ひは歴史的假名遣ひ同様,「簡單」でも「合理的」でもありません。學校で習ひ,讀み書きに習熟したからこそ,私たちはそれを遣へるのです。だから「私わ」なんて書く者は,文體的效果を意圖してゐるか,あるいは,ただの無學者(假名遣ひは正否・論理を超越した規則なので,敢へて「バカ」とは言ひません。おわかりですよね)に過ぎません。新假名遣ひを「表音主義」だと思ひ込んでゐることにまづ誤りがあるのではないでせうか。現代人は,さう書くのが規則だと敎はつたからさう書いてゐるだけです。さういふ譯で,
>まあなににせよ,「私は」が「私わ」とならないやうに願つてをります。
なんてことはありえません。表音主義者にとつては殘念ながら。おわかりですよね。「私わ」は間違ひだと,貴方だつて學校で「習つた」でせう?
ところで,「伝統文化破壊」といふご指摘については,むしろ,日本の文化は,歴史上,何度も破壞されて來た,と考へたはうがよいのかも知れませんよ。
萬葉集,古今和歌集,平家物語,神皇正統記,奧の細道,日本永代藏,澁江抽齋,それぞれ「原文」の表記は全然違ひますよね。時の流れのなかで語彙も語義も表記も流動・變化に晒されて來たのです。
それでも「日本文化・日本語」は存在する。そのことのはうに私は強い感動を覺えます。そういふ核こそが大事なものだと私は思つてをります。
長々と書きました。それではご自愛ください。
isao
>教はケウで強はキヤウで今日はケフですから,ルビをふるとなると国語知識がないと難しいでせうねえ。
字音假名遣ひについて,ブログ,コメントともに,一點書き漏らしたことがありました。
歴史的假名遣ひにおける字音假名遣ひの煩雜さ(ブログでは「難しい」と書きましたが,こちらの意味です)の解消こそ,現代假名遣ひの功績だと私は考へてゐます。
お莨様,あるいは,おたばこ様は,「要素」は「エウソ」であるといふやうな漢語の讀みの智識をどこから仕入れてゐますか?
私の記事でも觸れ,また「正字正假名」の人達が稱揚する『言海』でせうか? もしさうだとすれば,私がブログに書いたとほり,氣の遠くなるスローランゲージをなさつてゐるといふことになる。違ひますよね。現在出版されてゐる「現代假名遣ひによる國語辭典」なんぢやないでせうか。
歴史的假名遣ひを絶對視し,現代假名遣ひを輕んじてゐる人が現代假名遣ひによる國語辭典を使つて漢語を調べてゐる。それで「歴史的假名遣ひが正しいのだ,それに戻すべきだ」と宣伝する。かういふの,「狡い」と思ひませんか?
「正字正假名」の人達が字音假名遣ひの煩雜さに觸れたがらないのは,この「狡さ」と無關係ではないと私は思ひます。
お莨様,あるいは,おたばこ様は,現代假名遣ひの「利便性」を否定されてをられるやうです。それゆゑに,私のいふスローランゲージを實踐されてゐるとすれば,さすがです。どうぞお續けください。