障害対応で疲れた。身から出た錆。
昨夜,森鷗外について書いたついでに。
歴史的仮名遣い・旧字を国語の「正統表記」として復活させるべきだと主張する某サイトで,森鷗外の『仮名遣意見』をめぐって,あたかも歴史的仮名遣い・旧字表記そのものの擁護に鷗外の保守主義を直線的に関連付けるかのような論に出くわした(管理者に少し失礼なのでどこのサイトかは明記したくないし,当然リンクも貼りません。ただ笑うばかりです。このサイトは非常に有名で「正字正仮名」信奉者たちのオピニオンリーダーのようである。面白いことに,人は笑われると自分のことだとすぐわかるようである)。どうも保守主義と復古主義を勘違いしている人がいるらしい。鷗外はたしかに保守的であったと思う。しかし「昔に戻せ」式の復古主義者ではなかったように思われる。いまでいう「歴史的仮名遣い・旧字表記」は彼の時代ではアクチュアルな表記ルールであって,その当時「現在している」ことにこだわるからこその保守主義なのであって,過去のものとなってしまったものを再興すべき「復古主義」ではなかったのだから。
だいたい鷗外の『仮名遣意見』をきちんと読むと「歴史的仮名遣い・旧字表記」そのものを「擁護」しているようには思われない。軽はずみに表記を変えることはよろしくないとしか言っていない。当時の「歴史的仮名遣い・旧字表記」はこんなによいものだからそれを守るべき,などという論理ではない。逆に当時の仮名遣いにはいろいろ問題がある一方,書かれたものに準拠するよい面もあって,Orthographie 正書法としてこれを整備し教育普及してゆくことが大事,くらいの立場である。表音的仮名遣いの考え方を否定しているのでも推奨するのでもなく,それを採用する方針をとるとすれば徹底して音韻を考究したうえでやるべきだとさえ言っている。少なくとも当時の仮名遣いの問題点を共有し,よりよい政策の実現を目指す立場であることが読みとれる。
なのに,某サイトの管理者にとって森鷗外とは「『仮名遣意見』で有名」な作家である。『渋江抽斎』などの物語作家・西欧との相克の思想家としての側面よりも,「歴史的仮名遣い・旧字」の「正当性・正統性」を擁護した作家としての価値を上に置くかのような謂いである。「『仮名遣意見』で有名」ね。鷗外が可哀相になってしまった。要するにこの管理者にとって鷗外とは,なにより歴史的仮名遣いを擁護した「権威ある偉い先生」でしかないということか。歴史的仮名遣い・旧字表記に国語を戻すべきだ,なんとなればあの鷗外大先生もそれを擁護したからだ,というわけである。可哀相な鷗外。
ひと昔前,京都や大阪は共産党,社会党が強かった。知事はそうした革新政党の後押しする人が多かった。そのころ京都のある老女が選挙にまつわるテレビの街頭インタビューに応えて「うちは保守やから」と語るのを見たことがある。彼女の支持政党は共産党であった。どうもここには「政治的主張」ゆえの支持表明の意図は露ほどにもなく,彼女がただ周りに合わせたノンポリ丸出しのはんなり京女であって「アカ」とは無縁に思われたのであってみれば,「保守主義」とはまさにその時代の身近にある主流のことであるといえそうだ。これからすると,保守=自民党と考えるのは「先入観」というものである。「歴史的仮名遣い・旧字=保守」などという図式はそれ以上の独りよがりな理屈ではないだろうか。某サイトの管理者はひそかに「歴史的仮名遣い・旧字=保守」が真であるかのような前提をもって論じているに過ぎない。さらに「森鷗外=保守」,「森鷗外=偉い大先生」,よって「保守=正しい」,ゆえに「歴史的仮名遣い・旧字=正しい」という愚かな論理。これでゆくと「歴史的仮名遣い・旧字=保守」が覆されただけで「歴史的仮名遣い・旧字=正しい」の命題は破綻する。某サイトは鷗外の名を借りたただの権威主義だということがわかる。可哀相な鷗外。
鷗外の精神を汲むとすれば,保守主義に立つのならアクチュアルなルールをヘタに変えるのはよくない,といえる。つまり彼の「私ハ正則ト云フコト正シイト云フコトヲ認メテ置キタイノデアリマス」(岩波鷗外選集第十三巻『仮名遣意見』,1979,184 頁)との言は,「歴史的仮名遣い・旧字表記」そのものを「正シイ」と主張しているのではなく,本質的には,彼の時代に「正則ト云フコト」つまりルールであったものに対する意思をもったこだわり・積極的受容をこそ示しているのである。彼は仮名遣いというものの Orthographie としてのあり方,つまり文化的統制・ルールたることを正確に理解していた。鷗外は正しかった。いまこの時代の「正則」は現代仮名遣い・新字である。現代仮名遣い・新字でものを書く私たちにとって,鷗外流にいえば,それを「ルールに則って正しく」使うことが「保守主義」である。
自分でもなにが言いたいのかわからなくなってきました。疲れているからか。おやすみなさい。
※ 2009.10.11 付記
この記事について「正字正仮名」原理主義者のあるXXサイト(会社に入ったら,「正しい」と信念をもって使用しているらしい,そのいわゆる「正字正仮名」を使わなくなるであろう,おそらくは青臭い学生さんのサイトである。ご立派を宣った挙句,就職の前には髪を切るだろう,そのあとの人生を何事もなかったかのように社会に溶け込ませるだろうと予想のつく,昔の全学連くずれのような青臭い学生さん。日記の日付を「平成己丑年春三月辛未朔乙亥」などとしるさずにはおれない,まあ,そういう奇特な「個性的」なサイトである。私が上で揶揄しているサイトのエピゴーネンであり,私への悪口までもきちんと師匠を真似してくれる優等生,権威主義者を崇める権威主義者なんである。やっぱり当人に失礼なのでリンクは貼りません)が,私が「森鷗外は現代仮名遣いを擁護した」と詭弁を弄していると書いていた。これは,私に対する批判ではなく,グチないしはボヤキである。「『かなづかい入門』の作者のやうな事を言つてゐ」て「残念」というのは,批判などではさらさらなく,曲学日本人得意の「ああ,あれか」式鵜呑みの所作だから。日本には,例えばカール・マルクスの『資本論』を読んでもいないのに,「ああ,あれか,だからダメなんだ」と — 批判できずに — 極め付ける人がきわめて多い。なら「『かなづかい入門』の作者」の言っていることを事実に基づいて「批判」してみろというのである(師匠を鵜呑みにするのではなく)。
それはさておき,私は現代仮名遣いそのものが「正しい」と言いたいわけでも,鷗外がそれを擁護したなどと言いたいわけでも,もちろんない。そう書いたつもりもないし,そんなふうに読めるとはとても思われないし,またそんなことは歴史的にありえない。同時代にまがりなりにも通用している仮名遣いをルール・Orthographie として鷗外は大事にしたかった,という主旨である。ルールに則って表記することが「正しさ」の根拠だということである。でもまあ,別に,改めて説明するほど深い意味はありませんよ。このような権威主義的・復古主義的な「正統表記」サイトを嗤いたいだけだから。どうぞお好きなように私の駄文を解釈していただいてかまいません。
ところでまったく関係ありませんが,「正字正仮名」原理主義者サイトは,国語表記のみならず,まず間違いなく「HTML の書き方」にもうるさい(だからどの「正字正仮名」原理主義者サイトも,Web 画面としても判で押したように同じである)。これもまた私には吹き出してしまう特性なのである。彼らにとっては Web ページの価値は内容ではなく HTML の書き方で判断される。W3C 仕様準拠の HTML チェッカが彼らのなくてはならない文房具である。彼らにとっては日本語文が内容ではなく表記で判断されるのとまさに同じではないか。言葉,言葉,言葉,HTML,HTML,HTML,「平成廿一年三月廿六日」,なんである。
ところでやっぱり関係ありませんが,HTML リゴリスムだけでなく,「ら抜きことば」にめっぽう批判的であることを特徴とする「正字正仮名」原理主義者サイトもありました(いまはもうサイトを畳んでしまったらしいけど。おそらく髪を切って学校を卒業したんですね)。とにかく「ら抜き」をしないよう,しないよう,そればかり注意していて,「Web 2.0 の HTML は笑はれる」と — Web 2.0 の HTML はこれを笑うことができる,という意味で —「笑へる」記事を書いていた。まったく。言葉,言葉,言葉,HTML,HTML,HTML,「平成 21 年 3 月 26 日は平成廿一年三月廿六日と書かれる」,「平成己丑年春三月辛未朔乙亥」,なんである。
これら形式主義(下品な用語ですみません)に脱帽。究極の高級言語 HTML の書き方にうるさい人達 — C などいまや最低級の言語で土方作業に這いずり回ってきた私には,まことに畏れ多い方々である。原稿用紙の使い方にばかり気を遣う人たち。まことに畏れ多い。
私がなんでこんなことにかかずらっているのか? なににせよ,自分のスタイル(そう,「スタイル」でしかない)を「信念」とか「正しい」あり方とか称して他人に押し付けようとしている奴をみると虫酸が走るのである。
※ 2009.10.20 付記
でも,上で私が悪口をふりまいている「正字正仮名」原理主義者サイトはある意味で可哀相である。「正字正仮名」を批判するサイトは結構あって,古くさくてなに書いているんだかわかりづらいと「正字正仮名」派を嘲り,現代仮名遣いのほうがわかり易くやっぱり「正しい」と主張する。じつは私は,歴史的仮名遣いを絶対化するバカども以上に,現代仮名遣いを「正しい」として「正字正仮名」を批判する者たちのほうが低レベルだと思っている。
「歴史的仮名遣い」も「正字体」も「古くさくてわかりづらい」というのは,それは勉強が足りないだけである。古典や明治・大正・昭和初期の古い文献を読まずにすませられる人達なんだろうけれど。現代仮名遣いもただのルールに過ぎないのであって,「歴史的仮名遣い」,「正字体」の運用を否定するだけの強制力はない。これだけ普及したおかげで,文書の標準的表記ルールの地位を得ていると考えたほうがよいと思う。「歴史的仮名遣い」,「正字体」を好きな人が個人的に,あるいは仲間内で使っていてもよいではないか。私が「正字正仮名」派の悪口を書くのは,「正字正仮名」こそが正しく現代仮名遣い・新字を使うのは愚かだ,と言うその独善に限定しているつもりである。
「正字正仮名」原理主義者とそのアンチたちはどちらも「正しい」表記を巡って茶番を繰り広げている。私からみると学生運動の内ゲバにしかみえません(ホント「表記信仰」の新仮名派と旧仮名派の内ゲバ。「正字正仮名」原理主義者サイトは自分の宣伝かアンチへの悪口「しか」ない。ホント感心する。最近は「正字正仮名」派のなかでも内ゲバをしているようですが)。まあ「信念」なんだからいいではないか。言論の自由。笑われる自由。「正字正仮名」サイトは,不憫にも,卑劣な「サイト荒し」の被害にも遇っているらしい。立ち居振る舞いの点では,アンチのほうがよっぽど子供じみてみえるわけである(私のサイトにも「正字正仮名」原理主義者と思われる者からヘンな書き込みがないわけではないのだが。例えば,下の「木村某」のヘンなコメント)。
※ 2009.11.14 付記
「正字正仮名」原理主義者の HTML フェティシズムについては,ここにも,ここにも書きました。 mew-dist や mule-ja などのソフトウェア開発の avant-garde なメーリングリストをチェックしてから,この HTML フェティシスト達の愉快なサイトを訪れると,ホント,彼らの計算機活用レベルは高いこと!と感心できる。
うまくできたハサミ。— ありますね。使いやすいヤツ。
美しいハサミ。— 僕にはあります。
正しいハサミ。— うーむ。
うまくできた仮名遣い。— あまり気にならないが,そういう評価もできる。
美しい仮名遣い。— 歴史的仮名遣いは美しいと思います。ただし,僕の主観。
正しい仮名遣い。— 基準に応じて決めること。
うまくできた HTML。— まあブラウザで表示できてますね。でもデザインがなってない。
美しい HTML。— よく見ます。さすがデザイナー!
正しい HTML。— バカかお前。
木村某
無 職 は , 外 道 !
isao
主旨がよくわかりませんが,頂戴しておきます。
「外道」と言われると,ちょっとむっときます。
また,私は無職ではありません。日本国のために税金を払っています。