HTML のマナーのこと

今日 Web をみていたら,HTML のマナー,心得のようなことを述べるサイトがあった。HTML の利点は環境に依存しないことであるとして,ブラウザの推奨環境についての断りを記述するのは HTML の「思想」に反するだけでなく,HTML コーディングの力量不足をさらけ出すものだ,そんな制作者は Web ページを公開する資格がないし,またそのページは読むに値しない,という。あなたの非難しているのは,はい,私のような輩です。

たしかに,できる限り多くのターゲットユーザにアクセスしてもらう工夫をするのは大事なことである。この点で HTML に「環境に依存しない利点」があるというのはわかる。しかし,だからすなわち「推奨環境の措定は悪で,HTML の思想に反する低級なマナー」と主張するのはどういう理屈なのだろうか。HTML という言語形式のもつ特質に立脚しないことはすなわち悪であるという,こうした主張の根本にはあるのは,論理や思想ではなく形式への崇拝であるに違いない。世の中には形式に拘って,中身のない正論を一所懸命にする暇人がいるのだなあというのが私の正直な感想である。彼らにとってのコンテンツの価値は HTML チェッカの採点によって測られる。ばかばかしいのでそのサイトへのリンクを貼るのはやめておく。でもお硬い Web サイトをときおりぶらついていると,この手の「HTML の思想」みたいな主張をするリゴリストが意外と多いのに驚く。またそんなのにつき動かされてこんな文章を書いている自分の頭の悪さにも嫌気がさす。

もちろん HTML 仕様を研ぎすましている研究者,技術者は,計算機技術に裏付けられた慎重な考え方に準拠している。当然,HTML という言語は,その仕様の特性から,有効な,あるいは標準的な書き方というものが想定される。しかしそれはあくまで「設計」の話であって,HTML の具体的なコードは IE や Safari などの「実装」を通して表現がモニタ上に現われてはじめてその効力を発揮するものである。UTF-8 コードなど HTML 仕様,すなわち「設計」としては堂々と認められているにもかかわらず,「実装」の世界ではフォント,グリフがシステムにないなどの事情で,どのブラウザでも同じように出力できるというわけにはゆかないものがある。HTML の制作者がどうしても特定のターゲット実装に言及せざるをえない場合があるのだ。よってもって,「万人が閲覧できるように」コードを書くべきという主張は,— 実装が共通でない以上 — 机上の空論なのである。こんなことが不可能なことは,計算機プログラムを汎用的に書こうと努力した経験のあるものにとって当たり前の現実なのだ。「設計」と「実装」とは別物であると考えることは,計算機技術者のみならずあらゆる分野の技術者の認めるところである。 HTML の「適用」あるいは「運用」は「実装」に依存している以上,「設計」の思想とは独立して戦略をたてることの,いったいどこに「悪」があるのだろうか。HTML 運用の「推奨環境」の存在そのものを課題の議論抜きに「悪」だといって憚らないひとは,「設計」と「実装」の乖離に気づかないでいられるレベルの内容にしか思い至らないのだ。

HTML だとか,XML だとか,さらには SOAP にせよ,Web 2.0 にせよ,一般に計算機の技術というのは,何かの目的のために最適化された道具・フォルムに過ぎないのであって,それそのものは「思想」ではない。思想はそのフォルムを通して表現される内容,すなわちコンテンツもしくはアプリケーションなのである。それは,極端な喩えではあるけれど,数学記号が数学的思想を表現するための仮構的言語であり,その汎用性がいかなるものであれ,それそのものが自律して意味を有するものではなく,数学の目的とされ,評価の対象とされるのは,記号によって表現される数学的思考そのものであるのと同じである。微分が dy/dx や f'(x) ではなく独自に定義した記号で説明されているのをみて「こいつは無知だ。頭が悪い。数学の思想に反している。こんな論文は読むに値しない」と決めてかかるひとがいるだろうか。dy/dx や f'(x) は標準的記法であり広く説明抜きにわかるという意味でそれを使うことはたいへん重要だが,使わないからといってその数学者が「ばか」だとか「悪」だとかという判断をどうして下せるのだろうか。

そもそも形式そのものが新しい課題・思想によって変容していくものであり,課題を議論しない形式への拘泥は,形式はそれ自体で完成されたものであるとの幻想に取り憑かれたものの陥る誤りだと思う。HTML の作法だけでコンテンツの価値を測るなどまさにこれである。もちろん形式自体が意味を担うことがある。スタイル,様式といわれるものがそれである。でもこの場合も,思想・課題の議論が存在してはじめて,逆に遡って意義付けられた形式なのではないだろうか。