沼野充義編『ロシア怪談集』

河出文庫の一冊・沼野充義編『ロシア怪談集』は,ロシアの怪異潭を集めた数少ない集成である。偏頗な文学史家のおかげでロシア文学は,社会性・人間性・倫理性豊かなリアリズム文学こそがその偉大の根本であるかのように説かれてきた。それが大きな特徴であることは疑いもない。しかし,一方で実はロシアは幻想文学の宝庫でもある。ソヴィエト御用文学理論の信頼が失われたいまや,そのことを自信たっぷりには誰も否定しなくなった。植物の葉を顕微鏡で観察すると神秘的光景が広がるように人間精神の飽くことのない追究が一種独特の幻想的風景に到達する,というような逆説的意味だけではない。ロシアでは楽しみとしての夢物語も数多く書かれている。

『ロシア怪談集』はプーシキン,ゴーゴリ,ドストエフスキイ,ツルゲーネフ,チェーホフといった「リアリズム」の大家だけでなく,オドエフスキイ,ソログープ,グリーン,ブリューソフといった日本では知るひとぞ知るマニアックな詩人・作家の幻想潭をも収録している(ロシア本国ではいずれも巨匠の領域にある文学者である)。なかでも私は,ソログープの『光と影』,チャヤーノフの『ベネジクトフ』について少ししるしておく。

フョードル・ソログープ(1863-1927)は十九世紀末から二十世紀にかけて活躍したデカダン詩人・小説家。死臭のただよう退廃的な美の世界を描いた。私は大学時代,彼の代表作『Мелкій бесъ 小悪魔』を露文研究室の書架から借りて読んだ。それはなんと,日露戦争,血の日曜日事件の余韻醒めやらぬ 1907 年に刊行された初版単行本であった。古びて赤茶けた紙面に革命前のロシア語旧正書法で刻印された古風なキリル活字そのものが幻想的世界へと誘うかのようであった。主人公ペレドーノフの陰気で迷信深く嗜虐的な性格に苛立たせられる一方で,両性的美少年サーシャと美少女リュドミーラのエロスが魅力的であった。それは死によってこそ輝く美の世界。

『光と影』は醜悪な現実にあって影の非日常的姿に囚われた母子がそれによって狂(それはここでは死と等価である)に至る物語である。現実のいじましさ,みじめさ,醜さがここでは母子家庭という主人公の環境に集約されているように私には思われる。勉強熱心な息子と教育熱心な美しい母。よい学校に入り,よい地位を獲るためにひたすら勉強し,成績優秀であることだけが輝かしい未来の保証であるかのように思ってしまう,そんな拠り所を失った母子。息子ヴォロージャは成績がよいのだが,「...なにかいやなことが思い出されてくるのだった。... 教師がなにかの拍子に吐きすてて,感じやすい子供の心の奥底にいやしがたい傷を残した,意地の悪い,乱暴な言葉が浮かんできた」(p. 302)。無神経なひとびとによる社会的抑圧に「いやしがたい傷」を負わされた不幸な子供。日本でもありそうな話である。母子はふとしたことから影絵に魅惑され,それが嵩じて徐々に勉強をも,日常生活をも崩壊させてゆき,二人寄り添って狂気の世界に落ちてゆく。光と影という生活の日常的現象に潜む非日常性に囚われてゆくところが怖い。でもそれによってこの不幸な母子が救われるという結末がやるせない:「二人の瞳に狂気が,幸福な狂気が輝いている」(p. 339)。ハッピーエンド(!)というわけだ。

アレクサンドル・チャヤーノフ(1888-1939)の作品は私はこれまで読んだことがなかった。『ベネジクトフ』は,ひとの運命を自由にできる「プラチナの三角」がもたらす不幸の物語。この小説の主人公「私」は,まるでソログープのヴォロージャが大きくなったかのような,母の手で育てられた,学業も成り学者の道を穏やかに歩みはじめた青年である。不幸とはいえない。ところがある日突然,「まるで魂の自由も心の明瞭さも永久に失われ,誰かの重い手が私の頭蓋骨を砕いて脳にのしかかったように思われたのである」(p. 371--2)。それはベネジクトフが「プラチナの三角」によって「私」の運命を弄んでいたからであった。ここで,他人の運命を思いどおりにする魔術道具は,どうも,金銭的妄執とか権力の横暴とか,なにか人間の世界にしかと棲む目に見えない悪意の象徴のように思われてくる。そこが怖い。「そして再び,物思いに沈んだ。考えは,黒い糖蜜の中に落ちたハエのように固まって動かず,五感はどうしようもなく弱まってしまったが,あるひとつの感覚だけは鋭くなり,異常なまでに研ぎすまされた」(p. 378)。こういうグロテスクにして美しい世界感覚そのものが現代的な怖さを増幅するのである。

作者アレクサンドル・チャヤーノフはこの作品を書いた二十年後の 1939 年,スターリンの粛正で銃殺された。