クリスティナ・ロセッティ『終の棲家へ』

和歌山在住の友人・英文学研究者 T さんから,その論文を収録した英米文学試論集『文学研究は何のため』(長尾輝彦編著, 北海道大学出版会, 2008) と,彼女による解説付き翻訳冊子四冊 (和歌山大学経済学会 経済理論 別冊, No.324, No.336, No.341, No.342) をいただいた。試論集はラメのようにつるつるした真っ赤な情熱的ハードカバー装丁を藍色のカバーでくるんだ豪華なものである。6,000 円という価格に恐縮した。

T さんの論考は『祝福された女性たち — クリスティナ・ロセッティとキリスト教終末論』(pp. 175-89)。これはロセッティの詩『終の棲家へ』の作品論である。同封されていた翻訳 (No.336, 2007 年 3 月) とともに拝読した。クリスティナ・ロセッティ (1830-1894) はかのラファエル前派の画家にして詩人ダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹である。詩人としては兄以上の名声を獲得している。岩波文庫からも詩集が刊行されている。

『終の棲家へ』の原題は "From House to Home"。house は地上的な家,home は天上的な帰るべき家という解釈に因って来る表題である。論者は作品に現われた地上の楽園のテクストを取上げ,終末論についての詩人の思想を論じている。古来の終末論にみられる両義的な女性解釈 — 肉体のシンボルとしての不浄性と再生をもたらす霊性 — について紹介しつつ,詩人が「地上の生をはぐくむ女性性とその無限の力が顕現される」場所として「終の棲家」を描き,歴史的終末論に対する個人的終末論の凌駕を表現したのだとする。house, home の解釈と,終末論の二つのパラダイム (ローズマリー・ルサーの論) に立って,女性性の言祝ぎに導いた論はたいへん興味深かった。

この本は,編著者の長尾先生がお書きになっているとおり,「我々が今英米文学研究に携わっているのは何のためなのかと自らに問う」(p. i) たものである。世の中には文学なんてなんのためにあるのかさっぱりわからないと平気で口にする — 暗に文学に夢中になる者を小馬鹿にする — 者もいる。文学の価値を認めない者がいたってよいではないか。私はそういう者たちをただ可哀相に思うだけである。

私の周囲 (もっぱら職場のこと) は理科出身者ばかりゆえか,ブンガクのブの字も出ない環境である。「文学は必要か否か」なんて未来永劫,考えもしないであろうひとびとである。私は別にそれでよいと思っている。私自身は文学をただ好きなだけで,文学研究の動機は「そこに山があるから」で十分であると思っている。文学研究の価値を認めない者がいたってよいではないか。私はそういう者たちをただ可哀相に思うだけである。

しかしながら文学研究を仕事にしている者たちは,職業倫理としてかどうかは別として,こういう問題論をつねに心に留めているのだなと,私は興味深く思った。それにしてもこういうタイトルで書籍を出版できる英米文学研究者たちが羨ましい。

クリスティーナ・ロセッティの詩は岩波文庫の古書がまだ手頃な価格で入手できる。私の手元にある 1987 年の復刊版と同じものと思う。

クリスチナ・ロセッティ詩抄 (岩波文庫)
クリスチナ・ロセッティ
入江直祐 訳
岩波書店

一篇だけ,私の好きなロセッティ詩を引用しておく。

  海邊の墓
 
咲く薔薇を 忘れつつ
刺さへも 忘れつつ
刈り積みし 穗中にて
疲れ寢の 稻刈男,
かく寢む われも 朝まで。
 
冬風と 冷たくも
過ぎし日と 世を去らば
諸人は 忘れめど
ただひとり われを思ひ —
あゝ われを 偲ぶひとあり。
『クリスチナ・ロセッティ詩抄』岩波文庫,1987 年,53 頁。
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今日は妻の誕生日。家族皆で焼き肉だー。