Windows 7 発売・計算機言語のエクリチュール?

Windows 7 が発売された。Windows ファンの皆さん,おめでとうございます。

秋葉原のパソコン量販店では,夜中の 0 時にカウントダウンセール・イベントが催され,平日深夜にもかかわらずたくさんの人が集まったとか(まあ,パソコン・オタク達なんだろうけど)。Vista があまりにもひどい OS だったためか(私の感想ではありません),かえってコンピュータ・オタクたちの期待感を刺激しているようである。とはいえ,Windows 95 発売のときはこれ以上の大フィーバーであった。「Windows 知らぬ人から窓際族(ウィンドウズ)」なる川柳が詠まれた時代である。

Windows 95 は,マルチタスキングという装備を,IBM System 360 から 30 年以上,UNIX から 20 年以上も遅れて,やっと実装したに過ぎないにもかかわらず,パーソナル向けということから,さも画期的でもあるかのようにもてはやされ,その発売が一大事件として取り扱われた。「プリエンプティブ」だとか,わけのわからない新コンピュータ用語が大流行りになった。「先買権のあるマルチタスク」ってどういうことか。タイムシェアリング・マルチタスキング(古典的時分割多重処理方式)と何が違うのか。いまもってさっぱりわからない。マイクロソフトは,ごく当たり前の計算機ソフトウェア処理方式に対し別の比喩的英語を当てることで,なにかすごい発明をしたように見せるのがじつに巧妙なのである(どこかの文芸批評理論とそっくりなんである)。私もかつて Windows 95 が話題となったとき,顧客に自社 PC を売り込む際,マイクロソフトの尻馬に乗って「プリエンプティブなマルチタスクが実現されている」と説明したことがある。大型汎用機運用のプロであったその顧客は「TSS(タイムシェアリング・システム)とどう違うの?」と正鵠を射た突っ込みをした。「言葉が違います」と私。一同大笑いしたことが懐かしい。確かに,「コンピュータの大衆化」ゆえに,遅ればせながら TCP/IP を実装した Windows 95 はインターネットを爆発的に普及させた。その功績は否めません。

今回も,Windows 7 の何がそんなにありがたいのか,私はさっぱりわからない。いま勉強中である(というより Windows サーバーが 64 bit オンリーになるとき,何が起こるかを死活問題として考えているといったほうがよい)。Windows 95 以降,私は計算機商売にありながら,私的には世の中に取り残された感が否めない。

でも全然気にならない。その時代の流れには利用者にとって何も新しいものがないからである(その間のソフトウェアの進化はことごとく開発者向けである)。ハードの進化はさておき,パーソナル計算機でできることはこの 20 年ほど,本質的には何も変わっていない。ソフトウェアとしては,そう,辞書の収録語数が増えたような進化である。Web,メールによるコミュニケーション・情報収集,ワープロ,スプレッドシート,プレゼンテーション,テキストエディタによる文書作成,息抜きのゲーム,エッチな画像・動画閲覧 — これがほぼ不変のすべて。しかも,動画などの画像系アプリケーションは,ユーザーサイドからみると,従来の映画,写真集の品質の足下にも及ばない。オーディオ・アプリしかり(進化しているのは「作る」ためのものである)。私の愛する LaTeX アプリケーションも出版技術の後追いである。使う側の大半は少しも進化していないのである。怠惰で自己中心的な「教えて君」や,一事が万事の頭の悪い「ネット右翼」,礼儀知らずの匿名2ちゃんねらーが蔓延って,むしろコンピュータ・リテラシーは退化しているといってよい。

その一方で,パソコンの普及により,ソフトウェアのブラックボックスを甘受しつつ表層的な事象に意味思想を見出したがる文科系コンピュータ・ユーザーが増えたおかげで,HTML の書き方のような些末なことにうるさい,真に滑稽な人々が増えつつある。HTML はどのブラウザでも同じように表示されることが意図されているとして,そこでその設計の立場に従わないと,「HTML の思想に反する」だの,「HTML を使う資格がない」だのと言い出すようなリゴリストが増えつつある。パソコンの活用が何かしらしかつめらしいイデオロギーを纏いつつある。「そんな使い方は冒瀆だ」テキな。手段でしかない計算機技術の何かが,ロラン・バルトのいわゆる「エクリチュール」(ある時代や集団に特有の価値観・世界観に裏付けられた,表現・言語マナーの体系)になりつつあるのである。個人的な印象で言わせてもらえば,この種の「W3C 命」の滑稽者は日本語の表記にも滅法うるさくて,「現代仮名遣いは伝統への冒瀆だ」みたいな文化人気取りが好きである。馬鹿みたい(というか,馬鹿である)。計算機とは「汎用的ソフトウェアを利用する」ためではなく,「自分の個別目的のためのソフトウェアを作る」ためのものだ,という原初的計算機観に取り憑かれてしまっている私にとっては,「しかるべき利用方法」なんてのは畢竟どうでもよい。

自分だけの課題は出回っているソフトでは解決できないことのほうが多い。例えば,あるロシア詩人の詩の脚韻パターンの正確な統計を調べたいといった特殊な要請が,独自研究をなす者にとっては課題の多くを占めている。特殊であるからこそ研究に値するのだ。そういうとき,自分でその調査のためのソフトウェアを「作る」しか解決の手立てがないのである。そして計算機はそのためにこそ無限の可能性を秘めているのである。そういう意味で,ソフトウェアの「利用」ではなく「開発」こそが計算機という機械の目的の核心だと私は考えている。ソフトウェアを「作る」ことなく既成の汎用ソフトウェアで満足していると,それでできる範囲で「作法」が成立することがある。私には,そんなのは己の通じた「手段」を神格化しているだけの自己満足に思われてしようがない。

思うに,そもそも「内容=コンテンツ」と「HTML=手段」をごっちゃにしている HTML リゴリスト達は — HTML が「高級」言語であるだけいっそう — なんともレベルが低い。原稿用紙の使い方ばかりに執着する物書きと同じだからだ。「正しい HTML」,「HTML の思想」,「HTML の資格」云々。ホント,バカじゃなかろうか。いやはや,これをフェティシズムと呼ばずしてなんと言うのであろう。だから「文科系」は「理科系」に嗤われるのである。

私は計算機言語の古典ギリシア語のようなアセンブラにはじまり,HTML,XML などの超高級言語に至るさまざまな計算機言語を学んで来た。その過程で機能実現以外にもそのプログラミング所作・癖そのものが一種の美学になる様も職場で何度も経験して来た。計算機言語にも日本語や英語のようないわゆる一般言語と同じような「文体」・「マナー」論議があることにほんとうに驚いたものである(昔その一端を駄文『鏡の中の鏡』にも書いた)。計算機ハード技術の進化には 3 年で 2 倍になるという「ムーアの法則」と呼ばれる経験則がある。この破滅的進化において計算機言語にまつわる考え方が,人類の一般言語(文字,表記,文法などなど)との関わり方の悠久の歴史をごく短期間でシミュレーションしているようで,極めて興味深い。「計算機言語のエクリチュール」とでも題して,何か面白い文化論ができそうな予感がある。