萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』

『ロシアン・ジョーク』とともに,もう一冊,新書を読んだ。萩野貞樹著『旧かなづかひで書く日本語』。本書は,熱烈な旧字・旧仮名遣い信奉者による入門書である。私も歴史的仮名遣いにはたいへんな愛着がある。

私の長たらしい文章を読みたくないひとのために,結論から言っておく。この本はただの煽動本である。なぜか。根拠のないことをさも真実であるかの如く何も知らない読者に吹き込んで,彼を踊らせるだけでなく,世の中の標準を独善的に見下したがるエセ学者本の典型だからである。

本書は問題点が多い。まずなにより,著者による他者攻撃は不愉快である。旧字・旧仮名遣いはカッコいいとか,字音仮名遣い(=「法」の音読みを「ホウ」ではなく「ハフ」とする漢字音の旧仮名遣い)は厳密でなくてもよいとか,主観的主張のみならず,出典明示・引用もなく人をこき下ろすやり方に,私はところどころ引っ掛かった。現代仮名遣いで書かれた,長い年月を掛けて成った良心的な学術出版物を,けんもほろろに著者は腐す。西欧との相克における日本の知的立国に対し,死にものぐるいで悩み・努力してきた往時の人々を,表記方法の伝統という名分において,バカ・無知無能呼ばわりする萩野の態度。実のところ,萩野の主張内容についてくどくど批判したいというよりも,その失礼さ・自信満々の浅はかさ・尊大さに,私は道義的怒りを覚えた。

そういう点で,まじめに取り扱う価値を私は本書に認めない。ここでは,萩野の口性ないところでなく,その学問性において,私が問題と考える点をしるしておく。国語学の専門家ならば萩野の論をどう評価するのだろうか,私は知りたいものである。

旧仮名遣いで書くことの必要性・正当性を主張するにあたり,萩野がその根拠としているのは,次の言説に尽きる —

あれこれしつこく言つてゐるのは,そもそも文語と現代口語を分けるなどといふことはできないことをここでは言ひたいためです。文語・現代語を分けることができないならば「現代仮名遣い」といふものはあり得ない,あつてはならない,といふことになる。
萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』幻冬社新書, 2007, p. 42.

このあと「現代かなづかい」内閣告示にある「主として現代文のうち口語体のものに適用する」との一文を捉えて,「文語」にこれを適用する違法性を述べ,文語と口語体の境界線の曖昧さに基づいて,口語体にも現代仮名遣いを適用するのはおかしい,と著者は指摘する。要するに古典は歴史的仮名遣いで書かれているのだから,現代口語もそれに則るべきという単純極まりない理屈である。萩野は,しかし一方で,なぜ「文語」を歴史的仮名遣いでしるすのが「正しい」のか,ということをまったく追究していない。それは彼にとって自明のことだからである。ところが,「文語」が本当に「歴史的仮名遣い」で書かれている,書かれるべきかどうか,は自明ではないはずである。「現代かなづかい」内閣告示の一貫しない点を捕まえて,「だから歴史的仮名遣いが正しい」とどうして短絡できるのか。

歴史的仮名遣いに関するきちんとした国語学の本を調べたことのある者ならば,知っているはずである — 歴史的仮名遣いというものが,江戸時代契沖以降に整理された学問的なものであることを。学問的な成果である以上,いまだに歴史的仮名遣いの確定していない単語だってあるということを。歴史的仮名遣いが皆の則るべき規範(つまり「正しい書き方」)として社会的に意識されたのは明治以降であることを。それを,あたかもはるかな古代から伝わる「確立」された伝統であるかのように萩野は説くのである。 —

ところが日本にはそれ〔固有の文字を持つ言語:私註〕があつた。しかもそれは,千数百年以上昔のはるかな古代に,固有の文字を持たないままに自国語を精密に観察しようといふ巨大な意志が存在したことによつて実現し得たものでした。その果実を体得し伝統として,西暦九百年頃にはかな文字による国語の正書法が確立してゐました。
 例へば『土佐日記』などの用字法は,発音とは相当のずれが生じてゐたにもかかはらず現在の歴史的仮名遣とほとんど全く一致してゐます。
同書, p. 140--1.

「正書法が確立してゐ」たとは,なにをもって断定できるのだろうか。「確立された正書法」とはいったいどういう条件を根拠にしているのか。それについては説明がない。何も知らない読者は,このくだりを読んで,日本ではなんと「正書法」すなわちルールとしての歴史的仮名遣いが西暦九百年頃にはすでに「確立」していたと,教えられたつもりになるはずである。新書だからか,読者を馬鹿にしていい加減なことを言っているとしか思われない。それが学問的根拠に基づく言説でないことは,築島裕著『歴史的仮名遣い』など — きちんと一次資料(まさに「原文」)を調べた上で書かれた「国語学的な」論考 — を読んだことのある者なら知っている。「確立してゐ」たことを示す例として『土佐日記』を上げる時,萩野は「原文」(変体仮名を含む草書体写本)のテクストクリティークを踏まえているのだろうか? そこから「確立」されたとまで断言できる,原理としての表記の実態を観察し得たのだろうか? おそらく萩野は『土佐日記』の「原文」など見たこともないのに違いない。築島裕を読んだあとでは,萩野の言説が事実に反することが明らかだからである。「やるべきこともやらないで,このウソツキ」と呟いてしまうのは,私だけではないはずである。それなのに,萩野は一方で,岩波日本古典文学大系本などの一流の学者たちによる労苦の成果を,徹底的に腐している(「批判する」という言葉を使うに値せず,ただ「腐している」に過ぎない)のだ。

こういう論旨に不信感をもつと,著者が展開している,旧仮名遣いによる文学の現代仮名遣いへの「改竄」に対する批判についても,学者としての姿勢を怪しんでしまう(私も,谷崎潤一郎など旧仮名遣いによる作品の文庫本が現代仮名遣いに改められて出版されるのはオリジナル尊重という意味では問題だと認める。でも,普及という観点では,失われるものと得られるものとのバランスにおいて,そのほうがよいと考える向きである)。ところが,『土佐日記』や『源氏物語』だって,「原文」の仮名遣いは,その変体仮名の多様な表記が現代の仮名文字に包摂され,歴史的仮名遣いに「改竄」されて出版されているではないか。そこでは,あの美しい運筆の流れがことごとく捨象されてしまっているではないか。萩野の「原文」の理屈からすれば,古典は草書体の印影本形式だけで出版されるべき,ということになるのだ。要するに伝統というもの,古典というものが校訂者による「改竄」を通して現代人に親しいものになっているというあり方を無視して,「原文」主義を誇大に主張するのは,空理空論である。著者は,本当に「原文」に当たってから持論を展開しているのか,こういうところからも極めて疑わしくなるのである。著者が原文,原文,とうるさく拘っている引用例は明治以降の文学ばかりである。それで,現代仮名遣いによって千年以上の伝統がおしなべて破壊されるなどと誇りかに説いてくれるのだ。ただの大言壮語である。

私は歴史的仮名遣いそのものを否定するのではない。私がことさらに萩野の意見に反駁すべき必要を覚えるのは,要約すれば次の理由による。「傳統的・正統たる歴史的假名遣ひ」などというドグマを押し付ける言説は,日本語表記というものが「古代」から整備されているかのような錯覚を植え付け,「千年の伝統」などという偽りの概念を歴史的假名遣いに纏わり付かせることによって,戦後の教育者の努力を反伝統と極め付けて無に帰せしめ,現代仮名遣いのルールとしての性格を貶めるだけでなく,一方で,古典そのものの実態を見誤らせることにつながるからである。

きちんとした古典文学全集を開いて,校訂者序文を自分の目でよく読んでみるがよい。そして古典本文の実態をよく観察するがよい。そこには必ず「表記は歴史的仮名遣いに改めた」との断り書きを見出すはずである。古典表記の実態は,多く仮名遣いの混乱が見られ,それは「誤り」などではなく,正書法(つまりルール)が整備されていないだけのことなのである。例えば手元にある『神皇正統記』(十四世紀)はどうか。

或は累世の臣して其君をしのぎ,つゐに讓をえたるもあり。[...] 一種姓の中にをきてもをのづから傍より傳給ひしすら猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。
『神皇正統記』岩佐正校注, 岩波文庫, 1975, p. 24.

萩野に歴史的仮名遣いは簡単だと教わった者ならここにある「原文」の「誤り」はすぐわかるはずである。「つゐに」は「つひに」,「...にをきてもをのづから」は「...におきてもおのづから」が正しい歴史的仮名遣いである。この手の「誤り」は『神皇正統記』の開いたどの頁からも拾うことができる。また,さらに時代の下った十七世紀の例,かの俳聖・松尾芭蕉の次の句はどうか。

木曾の瘦もまだなをらぬに後の月
『芭蕉俳句集』中村俊定校注, 岩波文庫, 1970, p. 148.

「なをらぬ」は「なほらぬ」が正しい。北畠親房も松尾芭蕉も当代一級の文化人であった。なのにこの種の「誤り」がぼろぼろあるのである。彼らは太古から「確立されてゐた正書法」に無知だったのだろうか? 違う。歴史的仮名遣いを「確立された伝統だ」などと宣って,絶対視することのほうに誤りがあるのである。

彼ら古典作家の表記の実態に認められる言語は,萩野に言わせれば,「意味不明」になるはずである。文学の意義を形式ではなく内容によって考える者には,この萩野の言説は,古典というものを誹謗しているとしか受け取られない。萩野は,愚かにも,仮名遣いによって文学作品が「意味不明」になると自信満々で書いているのである。

これ〔「朝日歌壇」の短歌作品:私註〕が歴史的仮名遣で書かれてゐたら,「入る」の意味なら「いる」,「居る」の意味なら「ゐる」と書き分けられることになる。一見して意味明瞭です。ところが新かなで「いる」とあるために,この作品は決定的に「解釈不能」なのです。
 今引いた俳人の言葉からすれば,このやうに「意味不明」であることによつて「詩」となつたといふことなのかもしれませんが,それは通常人には通じない話でせう。
萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』幻冬舎新書, 2007, p. 124.

どうも私だけでなく,北畠親房も,松尾芭蕉も,「通常人」ではないらしい。こうして,萩野のこの根拠薄弱の偉そうな言説によれば,古典はみな「意味不明」と貶められることになる。萩野はどうしてこのような古典の実態をねじ曲げるのか? 彼の学者としての姿勢に私が疑問を投げかけてしまう次第である。己の主義主張のために自信満々に,偉そうに伝統を騙る者。私がもっとも忌み嫌う滑稽な日本人のタイプなのだ。

萩野の言う伝統とはただの形式主義ではないだろうか。「舊字・舊假名遣はカッコいい」,「舊字で書くと氣持ちいい」などという言葉は,見た目・カタチへの主観的偏愛を示して余ある。いずれにせよ,彼のような事実を踏まえないウソツキ伝統擁護論者よりも,ずっと深く日本文学・古典を愛し,その本質を理解し,その伝統の素晴らしさを明らかにしてくれる研究者・現代仮名遣いの書き手を,私はたくさん知っている。表記は伝統の本質ではないのだ。

もちろん,ある単語・表現の本来の使い方など,さすがに「大学教授」だっただけあって,本書には教えられるところもたくさんある。古語の活用を丁寧に教えてくれ,高校のころを懐かしむこともできる(そう,彼は「大学教授」というよりも「高校の国語の先生」というべきなのだ)。しかし,本書は,学問的根拠において判断するに,俗流国語学者による駄本である。

萩野の国語学者としてのアマチュアぶり,愚者ぶりが,いかにどうしようもないレベルかがわからないって? 「注意すべきなのは,およそ文字をもつやうな言語ならどの言語にあつても,最初の表記方法は,歴史のある一段階に従って音写であるといふ点です」(本書,p. 141)— 何でこんな壮大な学術的断言を何の文献学的例証もなしに吐けるのでしょうかね。古代エジプトの象形文字は,あれは「音写」でしょうか。こんな一瞬で反証ができる言説を,なんと自信満々で「何も知らないバカな読者」(何故なら,ちょっと考えればおかしいとわかるこのような言説を真に受けるわけだから)吹き込んでくれるんである。ホント自分のことを偉い学者だと疑うことがないようである。

こういう自信満々のエセ学者に騙されて,他人と違ったことをして「個性的」になりたいだけの(おまけに,「傳統擁護論者」という高級なステータスを苦もなく誇示できる)浅薄な学生,あるいは学生の青臭さの抜けない年配者が「正字正假名はなんと合理的なのだらう,動詞の變化が,たとへば,『言ふ』の活用がすべて『ハ行』で統一されてゐる」なんてしたり顔で宣うようになってしまうわけである。こんなの,一次関数のグラフは二次関数のグラフに比べ真っ直ぐで合理的だ,というような単純・愚鈍となんの変わりもないのに。バカなやつら。「合理的」って何ですか? この手のバカサイトは「正字正假名」で検索すればゴマンとヒットする。

本書は半年で三刷出た。売れているといってよい。つまりは「傳統」という魔法のような言葉によって,いま「舊字・舊假名遣ひ」は大流行なのだ。ネットでも,本書の書評を見てみると,好意的なものが多い。「目からウロコが落ちた」,「我が意を得たり」,「パラパラめくつてみるとなかなかどうしてしつかりした内容の本だつた」(「なかなかどうして」なんてもったいぶりが大いに嗤える),なんて感激している(バカな)評者もいた。そんな「幸せな」旧字・旧仮名遣いフリークには,是非とも本棚に一冊。そしてこの自信満々の学者先生による理論書で,歴史的仮名遣いの勝利を言祝いでもらいたい。こうして「なんちやつて舊字・舊假名遣ひ派」(間違いだらけの旧字・旧仮名遣いの文章をネットで見るにつけ,私が勝手にそう呼んでいるだけなのだが)が出来上がって行くということか。「なんちやつて舊字・舊假名遣ひ派」はいま増殖中なのである(嗤われているのがわからないらしい)。「萩野貞樹 旧かなづかひで書く日本語」で検索すると,この手の文化人気取りの哀れな人たちによる失笑を催すブログが,偉そうな少し頭の足りない「合理主義」者の駄文が,大量にヒットするはずである。

ネットには,萩野のような独善的押し付けなしに,旧字・旧仮名遣いを愛するがゆえにそれで個人的に文章を発表している方もいらっしゃる。私はそれ自体を悪いことだとは思わない。ただ,旧字・旧仮名遣いこそが「正しい」表記であり,現代仮名遣いに従うことは愚かである,伝統というものを貶めている,とでもいうような — しかも古典の「原文」の実態をまったく無視した — 萩野風言説に出くわすと,俄然反発したくなるだけなのだ。ま,「バカは死ななきゃ治らない」ってわけだけど。

それにしても,現代仮名遣いという現代人の書記ルールを高みから見下して,舊假名遣ヒニ復古セザレバ傳統ハ死ス,みたいな事実に依らぬ滑稽な大言壮語でもってメシが食えるのも,象牙の塔に籠ればこそ。ただのサラリーマンでしかない私のような生活人からみると,萩野は高校国語教師レベルの底の浅いエセ学問でもって大学教授の地位と給与を与えられている幸福者として,いたく羨ましい。社会の下層で他人の顔色を伺いながら文書を書いている私には,「ほんたうに」羨ましい。

 

エセ国語学者による愚劣な書籍だけを挙げるのは私の良心が疼く。上記でも言及した,ホンモノの国語学者による啓蒙書も挙げておく。