旧字・旧仮名雑感 — Wikipedia の議論について

先日 misima の問題点を訂正して公開した。このプログラムに関する頁は,私のサイトではなぜかダントツでアクセス頻度が高い。私自身は TeX で旧漢字を出力する必要のある時にごくごく希に使用する程度であるが,これを使ってくれる方の多くは旧仮名遣い・旧字(歴史的仮名遣い・旧漢字)で文章を書きたいと考えているようである。私の当初の目的とはかけ離れた使われ方ではあるが,そういうものかも知れない。私が想定した目的は,古い文献の引用を効率化することでしかなかった。通常の IME では旧字・旧仮名テキストの入力は困難であり,現代仮名遣い,当用・常用漢字による正則(というのはなにかというのはさて措き)表記テキストを入力することで,この労力を軽減するというものであった。

私自身は現代仮名遣い,広く認められた表記で書くべきであると考えている。もちろん「正字正仮名」(こんな名称はどこの事典にも載っていないけど)を使う人がいたってよいと思う。

でも Wikipedia の項目を歴史的仮名遣い(漢字表記を含む)で書くことの権利を主張する輩を見ると,なんたる鼻摘み者(ただの愚者。たしかに愚かな意見も主張する「権利」がある。嗤われる「権利」とともに)かと呆れてしまう。Wikipedia という媒体における表記の意味がまるで解っていないと考えてしまうのである。この方の曰く:

yfuruhataさんは,正字正仮名がよみづらいから,ということで依頼不備と仰ったのですか。なんだか,yfuruhataさんの「旧字旧仮名が嫌い」という気持ちと,私の「歴史的假名遣ひ,正字體をつかひたい」という信念のどちらが優先されるか,などというあほらしいはなしに思えてきました。「『削除の方針に合致するか否かを検討する場所』において,『信念』を唯一の理由として旧字旧仮名の使用を強行する行為」が,せめられることなのかどうか,がよく分からん。言いがかりとしか思えん。「旧字旧仮名」でも対話はできますしね。だで,そんなことで「対話拒否」を主張されても困る,というのが当方の主張です。(ところで,非常にどうでもよいことですが,yfuruhataさんの仰る「日本語(現代仮名遣い)以外」には,「旧字旧仮名」いいかえると,「歴史的假名遣ひと正字體で書かれた日本語」も含まれる気がします。)--壽日 2006年8月8日 (火) 14:22 (UTC)

「正字正仮名がよみづらい」,なんて私は思わない。yfuruhata 氏だっていったいどこで「旧字旧仮名が嫌い」などと「好き嫌い」で判断を下しているのか。壽日氏は「信念」などと言っている。この人こそ「好き嫌い」を公の場のルールに持ち込もうとしているように見える。Wikipedia 百科事典は「事実の共有」を志向する媒体であって,「信念」や「意見」を表明する場ではないはずである。「対話」が可能なことがエンサイクロペディアの条件であるとでも言うかのごとき低能ぶり,「正字正仮名」なんて仲間内だけで通用する言葉を使用して憚らないこと自体,Wikipedian としての質が疑われるのは措くとして,この人によれば Wikipedia 百科事典はなんと「信念」を吐露する場なんだそうである。まさに本人の言うとおり「あほらしいはなし」ではないだろうか。

論文には投稿規定があるように,Wikipedia のような万人が参照することを想定する百科事典には,執筆者が従うべき編集規定がある。表記はルールのひとつである。昔の数学書を見ると「関数」は「函數」と表記されていて,「函數」という表記自体は間違いではない。しかし,同一の数学文献でこれらが混在していると,統一性のなさ,名辞原則のいい加減さに著者の「数学的資質」を疑ってしまうに違いない。いったいどこの編集者,読者が,「関数」と「函數」を同列に使用している数学事典を許容するであろうか?(※) 歴史的仮名遣いがいかに立派なものかというような議論は措いて,この Wikipedia の鼻摘み者は学術用語の表記が統一されていない事典の無意味さに思い至らないようである。こうして Wikipedia は「信念」のゴミ溜めになって行くわけだ。

(※ 厳密にいうと「関数」と「函数」が混在している数学文献を私は知っている。共立出版から刊行されている『数学公式』1953 年初版がそれ。しかし吟味すると「函数」を mathematics の function,「関数」をプログラミング言語の function の意味で弁別しており,定義への態度は明白なのだ。)

要するに Wikipedia という「ルールを有する公的な場」において歴史的仮名遣いの使用に固執するような人は,百科事典を個人のエッセイかブログと勘違いしているのではないかと疑ってしまう。皆の所有物と己の所有物とを混同しているようである。よって,公のルールと個人の主張とを一致させないと気が済まない愚者,事実と意見とを峻別できない無教養者,と私の目には映る。私だって Wikipedia の責任ある編集員であれば現代仮名遣いへの書き直しを迫る。もし私の部下が顧客提出資料を「正字正仮名」とやらでもって来たら,「これは君の作品ではなくて会社としての文書なのだということを理解しているのか」と諭すだろう。「お前は青臭い学生か」と叱りとばすかも知れない。そしてただちに書き直しを「命ずる」はずである。歴史的仮名遣いの正当性,「信念」を主張したければ別のところで行うべきである。「ちょっと休みに随筆を書いたんですけど」ということなら喜んで受け容れる。

私は misima を使ってくれる人がいる以上,恥ずかしいバグは訂正しなければいけないし,メンテナンスをしていくつもりでいる。でも上のような主張をなす「正字正仮名」鼻摘み者予備軍(ただの愚者)に奉仕しているとしたら阿呆らしくなってくる。