バンクーバー冬季オリンピックが 13 日にいよいよ開幕する。私は,うちの娘と同じ年,同じ日に生まれた 15 歳の高木美帆選手の活躍を期待しているんである。
その一方で,スノーボード代表・国母和宏選手が「移動中の」服装の乱れについて「自覚せよ」と注意されている。驚くべきことに,そんなことが「ニュース」になっている。「移動中」ですよ。表彰台で中指を立てたわけではないのです。この件について,日本人選手としての「品格」のなさを問題視する人が多いようである。つまり,またぞろ,下品な「品格バカ」がかしましい。国母和宏選手は人知れぬ死にもの狂いの努力を経て代表の座を獲得した,「選ばれた者」である。ハナクソのような「品格」パンピーは,その境地を理解できるはずもなく,やっかみの声を束ねることでしか日頃の鬱憤を晴らせない。それはしようがない。そう。「品格」という概念は,ハナクソ・パンピーのつまらない己を肯定し,自己満足するための好都合な旗印だと断じてよい。どういうものか知らないが,どうも彼らには「品格」があるらしい。そんなものなら私はいらない。国母本人は「反省してまーす。競技に影響ありませーん」とどこ吹く風。さすが。
品格・品格・品格... 「品格」ってなんでしょうか? 「品格」を定義しないままこのことばに依ってものごとを判断する文章を読むと,私はもうそれだけでその文章にバカの烙印を押すことにしている。個人的な戯言で申しわけありませんが,「品格」を口にして他者を非難する人を,私は秘かに軽蔑しています。もったいぶった偽善者め。
「品格」に絡んでネットをうろついていたら,なんと,国語の品格バカ本・萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』についての Wikipedia 解説記事を見つけた。私はこの本について,大分前にクソミソに悪口を書いた。面白いことに,この Wikipedia 記事の著者は,まさに私が叩いた萩野の騙りをまるで擁護するかのように,次のような愚言をしるしている。
本書には一部に事実と異なって解釈されうる紛らわしい語句がある。同書141p
(前略)その果実を体得し伝統として,西暦九百年頃にはかな文字による国語の正書法が確立してゐました。例へば「土佐日記」などの用字法は,発音とは相当のずれが生じてゐたにもかかはらず現在の歴史的仮名遣とほとんど全く一致してゐます。注意すべきなのは,およそ文字をもつやうな言語ならどの言語にあっても,最初の表記法は,歴史のある一段階における言語の観察に従つた音写であるといふ点です。そしてそれに続く人々が先人の表記に対して,ある規範意識を以て向ふことで,正書法が成立します。千年以上前に,日本人はその正書法を確立したわけです。とあり,この部分は,明治時代に始まる歴史的仮名遣が平安時代から存在したとも読めるが,著者は巧みにもそうは言っていない。
この記事の著者は,「巧みにも」「明治時代に始まる歴史的仮名遣が平安時代から存在した」とは萩野は言っていない,と書いている。「正書法が成立した」「確立した」という表現が学術的にどれだけ重大な意味を持つのか,この Wikipedia 著者はなんの認識もないようである。この表現が根拠付けられるのは,「正書法が確立した」と断定しうる文献批判によってであって,「ある規範意識を以て向ふ」などという「想像」ないし希望的観測の域を出ないいい加減なレベルによってではないのである。つまり荻野の言説は,その表現の重大さが判る者には「紛らわしい語句」でもなんでもなく,明らかな「誤謬」なのだ。この Wikipedia 著者には,萩野がこの表現で「巧みにも」,自分をも,読者をも,騙していることが分らないらしい。彼には理解できないようである:「正書法」,「成立」,「確立」という表現の捉え方における溝 — 軽く受けとめてしまう Wikipedia 記者の感覚と,記述の学術的重みを認識する読みとの間にある懸隔 — に,私の謂うところの哀れな「なんちやつて舊字舊假名遣ひ派」たちが嵌り込んでしまっていることが(おそらく彼自身が深く嵌り込んでしまっているに違いない)。
「明治時代に始まる」なんて記述が引用のどこにあり,なんでそんなふうに「読める」のか — そもそも国語の読解のレベルから怪しいのだ。「巧みにも」なんて主観的な表現を Wikipedian が普通使うだろうか。「巧みにも」なにも,「明治時代に始まる歴史的仮名遣が平安時代から存在した」なんて,心配しなくても普通の国語力があれば誰もそのような誤読はしない。「現代の歴史的仮名遣」と「ほとんど全く一致してゐ」る「正書法」が早くも「西暦九百年頃」=平安時代に「確立」していて,それが「伝統」である — 萩野のこの言説は読誤のしようがない。ここで荻野は,「規範意識」などを「正書法の成立」の根拠としており,それが「土佐日記」で観察できるかのような言を弄している。「規範意識」—「意識」ですよ!— など検証できるものだろうか? この学者先生じつは「土佐日記」の写本の文献批判をしていないことが,これだけでわかるのである。「正書法」というからにはその「法」をしるした文献があってはじめて「成立」し,かつそれが連綿と堅持される様子が文献において確認できてはじめて「伝統」といえるのではないでしょうかね。ゆえに,私のような一介のシステムエンジニアから見ても,荻野の「学者」としてのレベルは低級である。荻野は己れの「信念」に基づいてそれこそ「巧みにも」「作文」しているに過ぎない。「およそ文字をもつやうな言語ならどの言語にあっても [ ... ] 最初の表記法は [ ... ] 音写である」なんて壮大なことが,どうして断言できるのだろうか(「音写」でなくて「絵である」と言われたほうがよっぽど説得力がある。象形文字をどう説明するのか)。「大学教授」,「学者」ならきちんと文献学に基づいて実証的に言説を組み立ててみろ,というのである。
「巧みにも」— 文体に溺れるただのバカ。この記事を書いたのは,論文審査を受けたことのない大学生であろうか。国語のレベルからすると高校生か。可哀相な記事の著者 — この恥ずかしい記事が Wikipedia の存続する限り今後もずっと残ってしまうわけである。いずれにせよ,こうして Wikipedia がインターネットの民主制(つまり,どんなアホにでも投稿を許容する機会均等主義)ゆえに「ゴミ溜め」になっていくのかと思うと残念である。Wikipedia の大きな欠点のひとつは記者の署名(きちんとした実名)がないところであり,よってこのような頭の悪い,「巧みにも」などと気取った言を弄する,無責任な記事が出回り,Wikipedia そのものの信憑性を落とす一因になっている。
記事のこの部分には,適切にも,他の Wikipedia 編集者によるメタテクストが付加されている:「この節には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈,評価,分析,総合の根拠となる出典を示してください」。この自浄作用のおかげで Wikipedia そのものの信頼が少し回復された。