作家・佐藤優と精神科医・斎藤環との異色の対談集『反知性主義とファシズム』を読んだ。妻が著者・斎藤環から謹呈されたものである。なんと私の尊敬する佐藤優とまで対談してしまうとは,というのがまず第一の(あまりにも個人的な)感慨だった。
本書はなんとAKB48の活動,村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると,彼の巡礼の年』,宮崎駿の『風立ちぬ』について論じ,その背景や世間による受容のされ方にあるファシズム,反知性主義について指摘している。もちろん佐藤優と斎藤環の間で意見が鋭く対立するところもあるわけだけれども,それぞれ相手の論旨を受け入れるように進むので対談が成立している。
すぐに読んでしまった。もっとも,村上春樹のくだんの作品は未読だったので,『色彩を持たない…』の考察部分はほとんど飛ばし読みであった。AKB48については,何を言っているのかよく理解できないところが多々あった。前田敦子は神学的に悪魔か,マリアか,キリストを越えたか,等々の話題がある。私はまったく着いて行かれなかった。AKB48も,ももクロも,ただのアイドル(ファンにとってはたしかにマリア以上の存在なのはわかる)に過ぎず,私にはまったくリアリティをもって論旨を共有できなかった。峯岸みなみさんの丸坊主事件に『巨人の星』以来の根性論,論理ならざる論理,ヤンキー的反知性主義を読み取るくだりは面白かったけど。
じつは,読んでいて私自身酷く傷つけられた部分がある。宮崎駿『風立ちぬ』を佐藤が「ふやけたファシズム」と徹底的に否定しているところである。堀越の遺族に映画を見せてエクスキューズをとったことを「宮崎は下品」とまで言っている。私自身はこの作品を,零戦と菜穂子という美しくも脆弱な存在への愛情の物語としてきわめて高く評価しているのだ(その感想を私はかつてここに書いた)。ところが,佐藤は次のように指摘する。
- 佐藤
- 〔…〕要するに彼ら〔宮崎駿,半藤一利:私註〕は,戦闘機を作るときの基準は「美しさ」であるか,「強さ」であるかということを話しているわけですが,こんなの「強さ」に決まっているじゃないですか。〔…〕何を言いたいかっていうと,かたやソ連において物資もないし,当時は世界中から包囲されていたわけです。その中で,何としても生き残らないといけないから,とにかく「勝つものを作れ」となった。そこに「美しさ」という基準をぶつけてくることが面白いなと思って。宮崎さんたちは思想において負けてるんです。
- 斎藤
- そういうことになりますね。勝ち負けに関心がなかったと言いたいんでしょうけれど。
- 佐藤
- そういう「ふやけたファシズム」っていうのが,どの程度の有効性を持つかっていうことです。〔…〕ファシズムだったらせめて戦争に勝つファシズムであってほしい。こういうファシズムは戦争にも負けて,国民に禍をもたらします。
一定の明確な目的があるもの・機能性に「美」の概念をすべりこませるところに,ファシズムの危険性があると佐藤は言うのである。これだけだと,ちょっと納得できない宮崎評とも受け取られる。しかしながら,別のところで,佐藤は次のようにも指摘している。
- 佐藤
- 僕は『風立ちぬ』が本当にファシズムだなと思う理由は,大衆を束ねちゃっているわけですよね。主人公の堀越二郎の仲間に対しては優しい眼差しで描かれているんですけれども,重慶の市民は視界から消えているわけです。
この指摘には打ちのめされた。われわれはヒロシマ・ナガサキの原爆,東京大空襲ほかの日本全国の空襲の被害を毎年思い起こしては反戦平和を噛み締めるわけであるが,日本軍が中国の重慶に対し無差別爆撃を行ったことを知らないもののほうが多くはないだろうか? こういう世界を一束にまとめてみていながら,あるものを視界から意図的に消してしまう思想的暴力にこそ,佐藤はファシズムをみているのである。『風立ちぬ』には,重慶爆撃を行った五十六式爆撃機が零戦とともに象徴的に登場する。軍用機オタク的嗅覚で佐藤は,宮崎が五十六式爆撃機の戦歴を知らぬはずはなく,重慶の被害者側の視点を意図的に消したのだと断言する。
佐藤はまた,零戦というある程度優れたものを完成させたのちはそのマイナーチェンジで戦争に勝てると思っていた堀越の思想に,日本式ガラパゴス現象の脆弱性を読み取る。零戦に「美」と脆弱の儚さを見い出す私のような読み手に対する痛烈な批判ととれ,この指摘に私はいたく傷ついた。オレも「ふやけたファシズム」に毒されているってか? 過去の知的遺産を吸収し,そのうえで「思想」を追究するインテリとは,こういう見方ができる人のことなのだと,私は改めて佐藤優に畏敬の念を覚えた次第である。宮崎駿の『風立ちぬ』は,それでも,好きであり,美しい作品だと思っている。
私自身は,「ファシズム」というのはかなり挑発的なニュアンスを帯びる歴史タームだと思う(「ファシスト」というだけで生理的否定を催す一方で,あくまで戦前・戦中のイタリアの政治思想の歴史的一形態でしかない)ので,思想的類型の観点で現代日本の社会現象に適用するのは少し控えたほうがよいのでは,と考える。現代に対する思想的特徴描写というよりはジャーナリズムを感じる。本書のちょっと理解に苦しむところはこういう点である。でも,いまこの時代の空気を素描するに,ちょっとジャーナリスティックであることも,許容される。