宮崎駿監督・脚本によるジブリ映画『風立ちぬ』を妻と川崎チネチッタで観て来た。堀辰雄の同名の小説の女主人公は「節子」なのだが,映画では「菜穂子」という名であって,堀の別作品の主人公から採られている。小説の「私」は,映画では,零式戦闘機のグランドデザインを担当した実在の堀越二郎をモデルにした人物にすり替わっている。作品舞台も有閑階級の夢幻的トポス・軽井沢に限定されず,関東大震災・大不況・第二次大戦の東京,名古屋の歴史的現実世界に及ぶ。こうして映画は堀辰雄『風立ちぬ』とはまったく別の作品に仕上がっている。映画は主人公の名前のみならず造形として,堀小説の内向的な(ある意味で感傷的で,独善的な)抒情,病的薄幸へのロマン主義的傾向とは本質的に異なる,開かれた,地に足の付いた感動を呼ぶ。
美しい飛行機を作りたい,という情熱が戦闘機の設計者として実現されるのは,第一次大戦後の軍国主義的時代の皮肉なのだろう。食べるのにも困る貧しい国に生きているのに国民の実生活に役立たない高価な戦闘機を製作させられることに,二郎も強い疑問を投げかけていた。けれども,もっとも美しい自動車とはレースで競い合うレーシングカーであると思われるにつけ,もっとも美しい飛行機もまた戦闘機にほかならぬということに,軍国主義的傾向に対して徹底的に否定的である私も,大いに納得できるのである。
零式艦上戦闘機 at 靖国神社・遊就館
零式艦上戦闘機(通称「零戦」)は本当に美しい。帝国海軍の戦闘機として最強といえるのは,おそらく川西航空機製・紫電改であろうが,機体の美しさという点では,三菱製・零戦を採る。プラモデルを作るのが大好きだった小学生のころ,零戦,ドイツのメッサーシュミット,英国のスピットファイア,米国の P-38 ライトニングなど,歴史に残る名機をいくつも 1/48 スケールで作ったものだが(静岡の TAMIYA 社から出ていた精巧なプラモデルで。とはいえ,私は決してミリタリーオタクでも,軍国少年でもありませんでした。為念),無駄な贅肉を剥ぎ取った超スリムな零戦の機体は,他国の戦闘機と並べてみると一目瞭然に優美だった。まるで女性の裸体のようにしなやかで美しかったのだ。映画の描く「美しい飛行機」への夢は決して独りよがりではないと身に沁みて思う次第である。零戦は登場した当初は群を抜く旋回性能で英米の戦闘機を圧倒し,あっという間に敵機の後方に着いてこれを撃墜したが,徹底した軽量化を追求したその裸同然のヤワな機体ゆえに,わずかな被弾で破壊されてしまうという決定的な弱点があった。
つまり,美しいことは同時にダメージに対して脆弱なことでもあった。零式艦上戦闘機についてくどくど書いたのは,作品の内在論理と直接関係しているからである。この零戦の美しくも脆弱な特徴が,映画のなかで美しくも病弱で果敢なく死んでしまう菜穂子のイメージと素晴らしく共鳴していて,大いに感銘を受けたからである(ここに軍国主義的意図を感じ取るのはただのバカである)。
航空機技術者・二郎の夢と零式戦闘機のように美しくも脆弱な菜穂子との恋物語。この点ばかりでなく,この映画の美しいところは,恋愛感情表現のシンプルさだと思う。二郎は思い立ってすぐに決めた婚姻の席で菜穂子に「綺麗だ」と言う。好いた女を見つめ心の底からひとこと「綺麗だよ,大好きだ」と言うことができる — なんと幸せなことか。こういうシンプルな愛情表現をオレも確かにしたことがある,でももう何十年前のことか,とハッと思った。ジンと来た。ある程度人生を生きた者なら誰でも,こういう抜差しならない瞬間があったはずである。それが遠い過去になってしまったか,つい昨日のことかは別として。そういう瞬間のただならなさを,ズバッと突き刺されるように,そう,風がふっと立って何かを覚醒させられるように,想起させられる,この映画の単刀直入さ。打ちのめされました。ここが映画『風立ちぬ』の,堀辰雄小説の病的抒情とは本質的に異なる,誰にもハッと来るような健康的感動の源である。
堀辰雄の『風立ちぬ』も,一応,リンク付けしておきます。堀辰雄の病床の美女のイメージは,青春時代の一時期,確かに心奪われる魅力を備えていた。しかしいまとなっては,「それらの夏の日々」云々ではじまる本作品の,「お前」と呼びかける「私」の一人称体物語は,わざとらしく気取っているようにも思われ,軽井沢での良家の子弟・子女たちのお行儀のよい不運なロマンスとして,いささか失笑を漏らしてしまうくらいである。
私の妻は,堀辰雄,永井荷風,三島由紀夫の作品を,なにかしら抵抗を覚えて,どうしても読み通せないと言う。妻が女性の嗜好の代表とは決して思わないけれども,彼等の作品が女性のこころをまったくくすぐらないらしいのは納得できるのである。自分の清潔な感傷的ロマンにぽっとなっているインテリ男(女とセックスできない男)=堀辰雄,女を踏みつけにしておいてなんとも思わない男(女とはセックスしておればよいと思う男)=永井荷風,強い男だけがもてると思いこんで自分でもそうなる努力をせっせと実践してしまう悪ぶり優等生・マッチョ男(女はガンガン突きまくれば嬉しがると思う男)=三島由紀夫。そりゃ女性から嫌われるわいな。ちなみに,妻によれば村上春樹,宮本輝がモテる作家の筆頭である。
誤解しないでもらいたいが,私自身は堀辰雄,永井荷風,三島由紀夫を深く尊敬している。
2014.7.5 付記: 宮崎駿の『風立ちぬ』は DVD でも出ましたね。