チョン・キョンファをサントリーホールで聴く

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四月二十六日,霜止み苗出づる穀雨次侯,東京・赤坂のサントリーホールで,久しぶりにコンサートを聴く。なんと,あの憧れのチョン・キョンファのヴァイオリン・リサイタル。ケヴィン・ケナーのピアノとのデュオである。妻が会社の方からチケットを譲ってもらったのである。コンサートホールに足を運ぶなんて,思えば 2012 年末,すみだトリフォニーホールで中嶋彰子さんのシェーンベルク『月に憑かれたピエロ』を聴いて以来であった。

新橋から赤坂のサントリーホールまで歩いた。晴れて少し暑かった。JT ビルで一服。JT サンダーズ・女子バレーボール・Vプレミアリーグ初優勝を祝する垂れ幕がかかっていた。アークヒルズに向かう六本木通りで遠くに見えるビルには,もはや SAMSUNG のロゴはなかった。業績不振のサムスンはとうとう日本の本社ビルを売却したそうである。これから韓国のヴァイオリニストを聴きに行く前としては,少々不景気な気分であった。また,チョン・キョンファの今回の Japan Tour 2015 の大阪公演は日韓国交正常化50周年記念と題されている。日韓関係が最悪ないま,こういう文化交流こそが一縷の望みか。チョン・キョンファはもはや韓国の,というより世界的な演奏家なので,日韓関係の枠を大きく逸脱しているわけだが。

チョン・キョンファは,学生時代から私のお気に入りのヴァイオリニストのひとりである。彼女は 1970〜80 年代において,情熱的で神懸かった厳しい演奏で抜きん出ていたと思う。まさに天才と呼ぶに相応しい。シベリウス,チャイコフスキー,メンデルスゾーンの演奏で定評があり,またそれゆえに人気もあったわけだが,私自身としては,彼女の英 DECCA 時代のプロコフィエフの第一番,バルトークの第二番,ブルッフの第一番の協奏曲の録音が,彼女の最高の名演だと思っている。ロマンティックな曲よりむしろ少々グロテスクで悪魔的なソノリティにおいてこそ凄い迫力を顕すタイプの演奏家である,というのが私の考えである。そして,目のきりりと細いあの東洋的風貌もまた,演奏に一種独特のエキセントリックな陰翳を与えていて,魅力的だった。

今日のプログラムは,ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第五番ヘ長調,第七番ハ短調,第九番イ長調,そしてウェーベルンの『四つの小品』。ベートーヴェンは,私にはほかのどの作曲家よりも難解に思われ,自分でチケットを買ってベートヴェンプログラムのコンサートに出かけるとしたら弦楽四重奏曲かピアノ・ソナタのチクルスくらいかと思われるくらい(なぜなら,ベートーヴェンの弦楽四重奏曲とピアノ・ソナタはクソ真面目を通り越して神秘的領域に踏み込んでいるからである),その真面目腐った印象で敬遠してしまう作曲家なんである。

でもでも,今回は理屈抜きにヴァイオリンとピアノの室内アンサンブルが楽しめた。かつて彼女の演奏に覚えた悪魔的熱情はほとんど感じられなかった。第七番の三楽章スケルツォの重音の高速なパッセージの切れの良さ,G 線の渋い響き,等々,さすがとしか言いようのない円熟の貫禄があった。ウェーベルンの『四つの小品』— じつは今日この曲の演奏にいちばんの関心があったんだが — のフラジオレットの透明感はめったに聴かれないたぐいのものだった。

演奏が終わると会場は割れんばかりの拍手に包まれた。アンコールに三回応えてくれた。バッハのハ短調ソナタから Siciliano,本日のベートーヴェンのソナタ第五番から Scherzo,そして最後はエルガー『愛の挨拶』で気の利いた締めくくりをした。大満足,感激いたしました。チョン・キョンファはもっぱら協奏曲のソリストとしての録音ばかりで,ベートーヴェンのソナタの録音はないのではないかと思う。今回,彼女の室内楽演奏を耳に出来たことも収穫のひとつだった。チケットを譲っていただいた方に多謝。

帰途,午後四時過ぎ,虎ノ門ヒルズ上方にうっすらと上弦月が見えた。

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ってなわけで,ベートーヴェンのソナタではなく,私のお気に入りの録音,バルトークとプロコフィエフのリンクを付けておきます。

Bartok: Violin Concertos Nos. 1 & 2
Kyung-Wha Chung (Vln)
Georg Solti (Dir)
Chicago Symphony Orchestra
Polygram Records (1990-07-03)
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲集
チョン・キョンファ (Vln)
アンドレ・プレヴィン (Dir)
ロンドン交響楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック (2013-05-15)

ところで,今日のサントリーホールの開演に先立って,館内放送でお客様へのお願い事項ということで,地震発生時の対応についての注意があった。わが国の東北大震災のみならず,4.25 ネパールの地震被害のニュースが生々しいいま,ことさら真摯に響いた。「万一,地震が発生しましても当ホールは十分な耐震構造となっておりますので,慌てず係員の指示をお席でお待ちください」と。なんとも頼もしい。

その外観の美しさでも音響の素晴らしさにおいてもわが川崎市の誇るミューザ川崎コンサートホールは,東日本大震災時,けが人は出なかったにせよ,天井が崩落し,その後,建設業者の工事不備を巡る裁判が争われ,耐震構造強化・復旧に二年も費やして,2013 年にやっとリニューアルオープンにこぎ着けた。それを知る者としては,この頼もしい案内に対し,「ほんまに大丈夫か」という思いもないことはないんだけど。