夢幻能・月に憑かれたピエロ

今夜,錦糸町のすみだトリフォニーホールで『夢幻能・月に憑かれたピエロ』を観て来た。能とシェーンベルクの室内歌曲とのコラボレーションという,個性的な舞台だった。オーストリア在住のソプラノ歌手・中嶋彰子さんのプロデュース,演出及びシュプレッヒシュティンメ。シテ・渡邊荀之介,笛・松田弘之,大鼓・飯島六之佐,地謡・佐野登/渡邊茂人/薮克徳,ヴァイオリンとヴィオラ・坂本久仁雄,チェロ・大澤明,フルートとピッコロ・岡本えり子,クラリネット・鈴木生子,ピアノ・斎藤雅昭,指揮・ニルス・ムース。『ピエロ』演奏者はオーケストラ・アンサンブル金沢のメンバーである。

公演を観る前は,シェーンベルクの傑作を生で聴かれるのが楽しみだった。しかし,このパフォーマンスは,単なる室内歌曲の「演奏」ではなかった。ただ独りの登場人物による室内オペラと夢幻能との,パラレルワールド風音楽劇といった趣きだった。強烈に魅了されたのである。

シェーンベルクの『ピエロ』のアルベール・ジローの詞そのものは,思うに,19 世紀のロマン主義的紋切型が世紀末的不安のなかで腐り果てたような退廃でしかない。「目で飲む恍惚のワイン」,「純白の奇跡のバラ」,「水晶の小瓶を照らす幻想の光にみちた月」,「蒼ざめた洗濯女」,「蒼ざめた血」,「苦悩の聖母」,「太陽を覆う黒い巨大な蛾」,「血のしたたる残酷な聖餐」,「瘠せ細った娼婦」,「三日月の白刃」,「聖なる十字架としての詩」,エトセトラ,エトセトラ,は,そのようなわかり切った,ゴシックロマンスの道具立てのような「あ,あれか」式の,陳腐といってもよいモチーフ,イメージである。陳腐化した退廃ってちょっと滑稽ではないか? とはいえ,いまや紋切型になってしまったからこそ,私は江戸川乱歩と同様こういう「古典的」乱脈・紊乱をそれそのものとして酷愛しているのだけれど。

ところが,そこに,もの言わぬ月の美女,嫉妬に我知らず般若と化す狂女,老いさらばえて打ち捨てられる老姥,という三態の夢幻能・鬘物のキャラクターが対置されると,ほとんど無関係な表現様式なのに — このパラレルワールドの接点は花と小袖のみが媒介になっている — 『ピエロ』の退廃的主人公が,日本的「狂」で異化されたような,独特の象徴的心理劇の主体として観る者に迫り来るように思われたのだった。月に見蕩れるピエロの狂気は月の精のような異界の美女への思慕と繋がり,絞首台の娼婦にピエロの抱く恐怖は般若の憎しみと嫉妬への戦慄に変じ,ピエロの望郷のノスタルジーは老いのために捨てられる運命にあるかつての絶世の美女の懐旧の情と交感する。月の美女が落としたバラを,ピエロが老姥に捧げようとする。こうしたメタ・フィクションが心憎かった。女の激情を秘めた一生を夢幻能という象徴的パラレルワールドとして『ピエロ』に裁ち入れることで,ピエロは恋をしたのだという新しいストーリーが生まれたのだ。かくしてシェーンベルクの『ピエロ』を夢幻的室内オペラとして楽しむことができたのである。

舞台(こういう言い方が相応しい)ではシェーンベルクの音楽と能楽の笛・鼓・謡が交互に進行するちょっと冒険的な演出があった。『ピエロ』のフルートと能楽の和笛とが呼び交すくだりは圧巻だった。和笛の心の強さ・気の鋭さがフルートと対照されると,身に,魂に,沁み入るようであった。西欧人で日本の楽器のなかで尺八に惚れ込む人は多いが,このパフォーマンスを観たら,能楽の笛に魅せられるに違いないと確信した。

今夜の舞台に大いに満足した。この DVD が発売されることを心から願うところである。それにしても,これは金沢,高岡に続く東京公演である。まず金沢から,そして演奏者がオーケストラ・アンサンブル金沢の団員,というところが極めて意味深長である。金沢という地がいかに文化レベルの高い都市であるかを雄弁に物語っている。シェーンベルクの室内歌曲を取上げること自体が商業的に無謀なのだ。しかも,大いなる藝術的実験を投下した出し物である。ある意味で東京よりも文化的に自由でかつ成熟しているようである。『ピエロ』の演奏も正確,艶やかで惚れ惚れした。この楽団の武満徹も絶品なので,ぜひフォローしてみていただきたい。

考えてみたら,昨年十一月に武満徹室内楽を聴いて以来,一年以上コンサートホールに足を運んでいなかった。近所のミューザ川崎コンサートホールが震災での天上崩落のためまだ再開できていないためか。私もどうもこのところ心に余裕がないようである。そこに十一月の末,なんと中嶋彰子さんその人がシェーンベルクの『ピエロ』に関する私のブログを読んで,メールでこのコンサートに誘ってくれたのである。十一月の霧と菊の彼方から声を聴いた気分になった。ブツブツ独り言・戯言ばかり書き連ねていても,ごくごくたまに,こういう身に余る幸せなことも起きるものである。

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付記:その後,中嶋さんが私の拙文を彼女のプロモーション・ブログ・サイト「夢幻能『月に憑かれたピエロ』」に転載してくださった。なんとも嬉しい出来事。