村松真理子『謎と暗号で読み解くダンテ「神曲」』

ダン・ブラウン著『インフェルノ』邦訳が角川書店から刊行され,にわかにダンテの『神曲』が注目を集めているようである。ブラウンの小説はまたいずれ楽しむことにして,同じ角川書店から新書で出た村松真理子著『謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」』を読んだ。妻が呉れたのである。

古典を読むに当たっては,その本文に付加された解説文だけではなく,専門家の手になる書物を何冊か読まないと理解が得られないのが普通である。だいたい何がどのように面白いのかがさっぱりわからない。また,わかったつもりでも,実際はその理解が見当はずれの独り善がりであることのほうが圧倒的に多い。ダンテ『神曲』は古来古今東西の多くの読書人を惹き付けて来た古典中の古典であるが,思うに,事情は同じ。この作品は,いわゆるルネサンス人文主義の黎明という文脈において世界文学史上の記念碑的傑作とされているけれども,何の準備もなくして読むと,心に響いて来るところがないというべきか。つまり,何が何だかさっぱりわからない。学生時代に山川丙三郎訳『神曲』を読んだときはまさにそうだった。でもこれはわれわれがキリスト教的文化背景に疎いということだけでは説明できない。ゲーテですら『神曲』天国篇は退屈極まりないと感じたのである。

村松のこの著書は,帯の宣伝文句,村松自身の「おわりに」の記述によれば『神曲』の「入門書」である。キリスト教的シンボリカの「コード」を明らかにすることで,難解な『神曲』を現代日本の読者に近しいものにしたいと意気込んでいる。「謎と暗号で読み解く」というタイトルはそれを示している。

ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』の語り手・若い修道僧が女性の肉体を経験したあとに卒倒してしまうくだりが,地獄篇のフランチェスカ・ダ・リミニの語りのあとの詩行「そして,死んだ身体がくずれるように,私は倒れた」のパロディだという指摘。権謀術数を尽くしたがために地獄の第八嚢に落ちた魂の一・ウリッセを巡る知と救済の問題と,アウシュビッツから生還したイタリアのユダヤ系作家プリモ・レーヴィがダンテの描くウリッセに自己投影したというエピソード。裏切りの罪で地獄の最下層に落とされたウゴリーノ伯に降り掛かった迫害の人間的極限状態と家族愛との葛藤の問題,そのチョーサーの解釈。村松のこういうエピソードの紹介はいたく面白かった。『神曲』の影響力・面白さをわからせてくれるという点で,面目を果たしているといってよい。

しかしながら,私が面白いと思ったこれらは,ほぼ,『神曲』の文学的意義とは直接関係のない「エピソード」である。ダンテのテクストを「謎と暗号で読み解く」というのと趣旨がまるで違う。もちろん,全篇「三」という数値に基づく韻文で構成されそれは三位一体を象徴しているという解説があり,森とそこで遭遇する獣のイメージに関するキリスト教中世的象徴解釈が示唆されており,確かに「コード」云々の意気込みはある。でも,このレベルならば,山川丙三郎訳による大昔の『神曲』をはじめどの『神曲』翻訳書にもごく当たり前の事柄のように書かれている内容であって,「コード」なんて近年流行の用語を持ち出すまでもなく,翻訳書に付属する教科書的解説とは別に手に取るべき書物に期待するところではないのではなかろうか。

象徴についてダンテ自身が説明していることとして,村松は次のように書いている。

『饗宴』の初めの2章でダンテは,scritture(書かれたもの)は四つの意味に理解可能だとする。第一は,字義的なそれであり,詩人たちの「物語 favola」の虚構のことばだと言う。「森」ならば,その具体的な属性を指す意味のことだ。第二の意味とは「アレゴリー」であり,「その物語のマントに隠されたもの」,「美しき虚偽の下に秘された真実」である。「森」ならば,宗教的・倫理的な,あるいは学問上の,困難や挫折,迷いや過ちを指していると考えられるかもしれない。第三の意味は,倫理的なそれだと言う。第二の意味の上に,読者は倫理的な価値を読み取るべきなのだろう。そして,第四には「アナゴジー(神秘的解釈)」たる上位の意味がある。それは解釈によって理解できる神秘的な意味で,ほのめかされるが隠されている。
村松真理子『謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」』角川書店,角川oneテーマ21 B-169,2013年,54-5頁。

この「四つの意味」を村松はダンテ『饗宴』独自のテクスト観であるかのように引いているけれども,じつは中世キリスト教神学の聖書解釈において広く行われていたものである。アローン・グレーヴィチは『中世文化のカテゴリー』において,それを次のように要約している。1. 事実の面からの歴史的解釈,2. アレゴリー的解釈,3. 教訓的(比喩的)解釈,4. 宗教的真理を啓示する神秘的解釈(アーロン・グレーヴィチ『中世文化のカテゴリー』川端香男里・栗原成郎 訳,岩波書店,1992年,116-7頁)。続けて,グレーヴィチは指摘している。

神学者たちはこの解釈の方法を聖書だけに適用し,俗世の他のテクストに同じような解釈を適用する可能性をしりぞけた。しかし「四通りの意味の」解釈を芸術作品にまで拡大するという傾向は存在していた。ダンテはカン・グランデ・デルラ・スカラへの手紙の中で,『神曲』は「多義的」に解釈されねばならない,「なぜなら文字がもたらす意味と,文字によって表わせられたものがもたらす意味は別ものだからです」と主張している。
グレーヴィチ・同書,117-8頁。

ここで要約されているテクスト観は,「文学は行間を読まなければならない」に類した愚劣な通俗的教説なんかと比べると,遥かに重要かつ高度な定式化でもって,文学機能・藝術的特性について語るものである。このようなテクストの多義性に関するダンテのことばにしかるべく着目しているのなら,村松はなぜその観点を具体的に押し進めて『神曲』の問題場面の四つの意味をわれわれに解き明かしてくれないのだろうか。テクストの字義,アレゴリー,価値,アナゴジーを現代的ロゴスによって総合して見せてくれないのだろうか。これこそが中世に生きたダンテの世界を理解することではないだろうか。村松もダンテのこの言説に着目しているからには,それこそが彼女のやりたかったことだったのではないか,と私は信ずる。それは紙面が許さなかった,というところかも知れない。入門書として面白く読ませるのが本書の目的であって,ダンテ『神曲』の本来的・学問的解釈や中世人の世界観(キリスト教的象徴云々だけじゃ「世界観」とはとうてい言えない)を叙述することは二の次なのか。角川の編集部がそれを嫌ったのだと私は勝手に思っている。

ところで,ダンテが『神曲』を「俗語」で書いたことの歴史的意味について,本書はかなりの頁を割いている。これは文学に対するダンテの見識を教えてくれる点で本書の評価できるところである。ダンテは俗語を彫琢することで『神曲』によってイタリア文学言語を創造したのだということ。しかし本書は,その本質的意味をわれわれが納得できるようには述べていない。その背景として「読者」の問題を提起し,あるべき文学言語というテーマを掲げておきながら,ラテン語を解さない大多数の人々に向けて書いたということ,ダンテの『神曲』のことばの九割が現代のイタリア語でそのまま通用しているということ — 結局,この二点の凄さだけで,うやむやのまま終わらせてしまっている。

ラテン語で書くのが当たり前の時代に敢えて皆がわかる俗語を用いて,壮大な叙事詩を打ち立てた,しかもいまのイタリア人もほとんどそのままでこれを理解できるのだ — このいったいどこに「文学史的意義」があるというのだろうか。何がどのように「創造」されたのか,そこにどのような矛盾とその解決の労苦があったのか,そしてそれがどのように後代に受け継がれたのか。本書の記述に従えば,どのようにしてダンテはことばの「パンテーラ」を探り当てたのか。これらについて,『神曲』のテクストに基づく具体的な説明が何もない(どういう経過を経てイタリア標準語の格を備えるに至ったのかについては若干の歴史的解説があったのだが)。

水村美苗は『日本語が亡びるとき』のなかで,フランス人は三百年前の哲学者のテクストを現代フランス語と同等に読むことができるのに対し,日本人は漱石すら読むことが困難になっている,と嘆いた。村松は,これとまったく同じ,「継承性こそが言語の最高の価値だ」とでもいうような,意味のない,底の浅い言語的価値観に囚われているだけのように私には思われた。中世におけるラテン語と俗語・イタリア語との関係性に,現代の世界共通語・英語と自国語とのパラレルを投影し,自国語の価値・意味とその存亡について思いを馳せずにはおれないところも,水村とまったく同じ無意味な所作に思われた。なぜ「意味のない,底の浅い」言語的価値観なのか。それに従えば,文学言語が時代により恐ろしく変容して来たわが日本文学の歴史を著しく貶めるからである。おまけに,ダンテの鋭い言語観の意味をも見落とす結果になるからだ(しかも,村松自身が引用しておいて,である)。

われわれのすべての言語(最初の人間の創造と同時に神の創りたもうたものをのぞいて)は …… われわれが勝手につくりなおしたものであり,また人間はきわめて不安定でかわりやすいがゆえに,言語は継続性も不動性もなく,空間と時間の変化にしたがって変化すべきものなのである。
ダンテ『饗宴』からの引用。村松・前掲書,237頁。傍線は私。

『神曲』言語の現代における継承性(不変性とまではいわないまでも,ダンテの言う「変化すべき」言語本性とは相反する性質)に凄さを見いだしている著者は,ダンテが俗語の流動的本性を認識しながら敢えて『神曲』を俗語で為した文学的意図の核心について,掘り下げることはない。でもなあ。「空間と時間の変化にしたがって変化すべきもの」— こういう,本性として動的なものをその抜き差しならぬ段階(=『神曲』が成立した時代)で微分したり,積分したりすることによって,われわれにその構造的本質(言語史・文化史的意義)を見せてくれることこそが文学研究者の役割ではないのか? それなのに,『神曲』の言語がいま現代においてもほとんど同じ姿で通用していることに感嘆して終わりなんて,どういうこと? これじゃ,芥川賞を取ったという結果や話題性に瞠目するばかりで,なぜ作品が受賞できたかの文学的分析を疎かにする一般読者と同じではなかろうか。

『神曲』言語の本当の凄さは,想像するに,それが「いまに生きている」などという「生命力」みたいな,本質的でない曖昧な概念によるものでは決してない。私はイタリア語・イタリア文学についてはまったくの門外漢ではあるが,イタリア語に果たしたダンテの役割に近い,ロシア文章語の確立者とされるプーシキンの文学言語を巡る活動を注視したことのある者として,そのように確信している。これについてはまたどこかで記したいと思う。

専門家による適切な手引きに導かれると,「視れども見えず」だった古典のテクストの見えなかったところがありありと見えるようになって,愕然とすることがある。著者の学識の広さ・深さ・洞察力に驚嘆するとともに,己の無知と勝手な解釈とに恥じ入ってしまう。そう,ヴェルギリウスに導かれて眼を開かれるダンテのように。私にとってそういう忘れられない驚愕の体験は,ユーリイ・ロートマンの注釈に導かれたプーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』読書であり,安東次男『完本 風狂始末 — 芭蕉連句評釈』に従った芭蕉七部集読書であり,ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』で蒙を啓かれたラブレー読書である。いずれも,対象に対する己の美的評価を内省するよりもむしろ,失われてしまった作品世界のレアリア・世界観・人間的表象を再構築しようとする文献学的アプローチにこそ特徴のある,真に第一級の研究者である。

村松の『神曲』入門書は,『神曲』の記述を巡る様々なエピソードの紹介で面白かった。しかしながら,ダンテ『神曲』の本質的豊かさについて私に何も発見させてくれなかったという意味で,思うに,ロートマンやバフチンの書物と同列に置くことはできない。また,いくら入門書と言ったって,学者による著書なのに,西欧中世史の碩学ル・ゴフの名の言及があるにせよ,『神曲』解釈を巡る記述内容が,著者自身による独自の観察なのか,他の研究者の説なのか,まったく不分明のまま展開されているのも,私にはいただけなかったところである(瑣末なことだろうか?)。ダンテ『神曲』についてエーリッヒ・アウエルバッハ『世俗詩人ダンテ』やアローン・グレーヴィチ『中世文化のカテゴリー』といった非イタリア圏の学者による優れた論評を読んでいた私は,少なくとも,イタリア人の手になる優れた現代的『神曲』注釈の存在を本書で教えてほしかったところだが,それすらなかった。ダン・ブラウン『インフェルノ』をシナジー的に売りまくりたい角川書店から出た本としては,ま,致し方ありません。

上記のとおり,さんざん不満を漏らしたわけではあるが,それはあくまで私の関心に特化したものである。ある時期その魅力に憑かれた古典について書いた本に関しては,どうしても厳しい評価をし,また辛口になってしまうものである。本書は,『神曲』の地獄篇,煉獄篇,天国篇を一通り辿って読みどころのポイントをきちんと押さえているし,ダンテの言語観,『神曲』の文学史上の意味について,入門書としては意外なほど丁寧に解説している。手に取る価値のある書籍である。これは私の本心である。

 
中世文化のカテゴリー (岩波モダンクラシックス)
アーロン・グレーヴィチ
川端香男里・栗原成郎 訳
岩波書店