水村美苗『日本語が亡びるとき』

水村美苗のエッセイ『日本語が亡びるとき』— 妻がクリスマスプレゼントにくれた本をやっと読み終えた。水村美苗は,『私小説 from left to right』や『續明暗』,『本格小説』など,小説についての小説という作品イメージがあり,現代日本の知的作家の代表格とも俺には思われる。「文学」してるね。

本書は,世界標準語と非標準・日本語の「非対称性」の相克に生まれた近代日本文学の意義を,切々と述べている。"une littérature majeure" としての日本文学の誇り,将来の日本語に対する危機感 — よくぞ書いてくれたという感銘を受けた。全体として,非常に刺激的な内容だった。

ただし,最後の二章は飛躍を感じさせてあまり感心しなかった。英語が世界標準語の地位を確立したインターネット時代,英語のリーディング能力を高め日本語を保守する国民的努力がなければ日本語が亡びる,とまで主張する理屈は,そのこころには共感できても,弱いと思った。水村の言説は,西欧列強(ここでは英米)の武器を買い国を守らなければわが邦の民族・伝統は守れない,とする帝国主義的和魂洋才とまったく同じである。そんなこと,高尚な文学者や大学の偉い先生は納得しても,俺のようなただのサラリーマン,漁師,百姓,土木作業員,レジの店員など下々の者たちは,なんのリアリティも感じないと思う。

水村の言う「最近の日本語は乱れている」とは彼女に限らずよくなされる言である。別にいいじゃないか。なぜなら,こんな文化人の愚痴はいつの時代にも共通のものだったからである。俺には「日本語は何度も亡びて来た」と言われたほうが納得できる。亡び続けられることこそが日本語の素晴らしさだとさえ思う。古事記,源氏物語,平家物語,日本永代蔵,南総里見八犬伝,こころ,ノルウェイの森 — それぞれ日本語としてまったく違う。でも,言語構造としてどれも間違いなく日本語であり,日本語はあたかも何度も亡び生まれ変わったかのようなのだ。死と再生という日本人の生死観を表すかのように。俺にとっては,むしろこの日本語の変化こそが誇りである。

水村は,言葉を大切にするフランス人は 300 年前の人間が書いたフランス語を普通に読むことができるのに,日本では現代人はもはや漱石すらもきちんと読めない,と嘆く。別にいいじゃないか。断言するが,そんなことは日本語,日本文学の価値の範疇ではないのだ。日本人は,学ぶことを厭わない者にとっては,1300 年前の古典をありありと「日本語」として感じつつ,そこにある祖先のこころを偲ぶことができる。冗談抜きに,我が国の文学をフランス文学(なんか)と比べられては困ります。

水村はあまりにスタイリストに過ぎるように俺には思われる。西欧ぶりの「高尚な」スタイリストに。言語観・文学観において欧米帝国主義列強に征服されちゃったんじゃないでしょうか。水村の主張は,明治以降の西洋的概念での「一級の文学」に捕われ過ぎてはいないか。水村が現代日本文学を低く見るのは,漱石など錚々たる近代文学の巨星の言語と,日本の近代化に伴う西洋と東洋の相克とを,一体化して真面目に考え過ぎているからのような気がする。

文学の面白さは思想とそれを支える高尚な言語の存在感だけではないはずだ。真剣さも大事だけれど,ナンセンスや軽さ,心からの笑いもなくちゃ。日本語を破壊したいのかと思わせるような二流,三流,四流,五流の文学さえも,日本文学の体力,深さ,広さを感じさせる証左であって,俺は却って日本文学を頼もしく,誇らしく感ずるほうである。