大野晋編著『源氏物語のもののあはれ』

大野晋が教え子たちと編んだ『源氏物語のもののあはれ』を読んだ。

「ものあはれなり」など「もの」が付く古語に焦点を当てて,『源氏物語』の用例から言葉の深い意味を解説した書である。「もの」に込められた「世間のきまり」,「運命,動かしがたい事実・成り行き」などのニュアンスを,共起語,文脈の分析から易しく解き明かしてくれる。紫式部が言葉を精妙に,一貫性をもって使い分けていたのだということがよくわかる。例えば,少し長い引用ではあるが —

モノは平安時代では軽い接頭語ではない。[ ... ] そして,モノにはきまり,運命,忘れがたい過去の事実,逃れがたく身を取り囲む状況,周囲の状態,という大きな意味がある。モノアハレナリにはそれがはっきり現れている。
 光源氏は新しく迎えた女三の宮のところへ,世の慣習の通り三日の間は夜離れなく通って行く。それを見送る紫の上としては,
(20) 年ごろ,さも [ソウイウコトナド] ならひたまはぬ心地に,忍ぶれどなほものあはれなり [自分ノ運命ノ悲シサガ眺メラレル] (若菜上)

 光源氏は薫を自分の子として抱く。[ ... ] しかし,これは自分の子ではない。この薫の出生の秘密については他に知る人はない。しかし,思えばはかない人間の縁であると思うにつけて,光源氏は人の世の運命を思って,つい涙をこぼす。[ ... ]

(21) [ 人生ノ ] 末になりたる心地したまひて,いとものあはれに思さる [ 運命トイウモノノ悲シサガ反芻サレル ] (柏木)
大野晋編『源氏物語のもののあはれ』角川ソフィア文庫,2001 年,pp. 173-5。

「もの悲し」などの「もの」を「なんとなく」といったニュアンスで受けとめる人は多いのではないだろうか。それが一般的である。私も本書を読むまではそうであった。私の愛用している古語辞典 — 佐藤定義編『最新 詳解古語辞典』(明治書院,2003 年版) でも,「ものあはれ」は「なんとなく,しみじみとした情趣のあるさま。なんとなく感慨深いさま」(p. 615)との語釈が与えられている。大野はそうした雰囲気として言葉を解釈することを拒否している。これが,上に引いたような優れた読みを導き出す原点であり,私がもっとも感銘を受けるところである。

日本の古典文化を礼讃するある者は,「わび」,「さび」などの言葉に言い現しがたい美をもって日本文化の特長とみなす。俳句などの「微妙な味わい」は外国人には理解できるはずがない,などと断言する者もいる。私はそういう日本伝統文化礼讃者が大嫌いである。美を説明できず,酔って口ごもっているだけだからである(実際にはなにもわかっていないように私には見える)。文化的ひきこもりとでも言うべきである。「なんとなく」という解釈がいかに奥床しく「日本的」に見えようとも,その曖昧さを拒否し,日本古典の奥深さの本質を,作品に即して,文献学的に,ロジカルに,背景のない第三者にも明確に,言葉で示すこと。『源氏物語のもののあはれ』のアプローチの美点である。

大野晋は,日本語の祖をタミール語に求める学説など,ユニークな業績を残している(国語学のトンデモ本だと思っている人も多いかも知れないが)。この他にもたくさん日本語に関する啓蒙書を書いている。『日本語の教室』,『古典文法質問箱』がとくに面白かった。