泉鏡花『紫障子』

『鏡花全集』巻十九に『紫障子』という怪異小説が収録されている。大正八年発表の作。82 頁という分量からすれば中篇といえるだろう。泉鏡花作品のなかではマイナーな一篇で,彼の代表作にあげるファンは数少ないかも知れない。しかし,中期のかなり力の入った作品であることは間違いなく,また,思うに,鏡花怪異譚の構造的特徴をきわめてよく示すものである。京都の宿,男が悪夢のような嘔吐感とともに目覚めると,横に慄然とするほどの美人が眠っている,という物語の異様なはじまり方が凄い。

作者の親友・木菟(風貌がミミズクのようだから作者はこう呼ぶ)は,友人の実業家・征矢(そや)の計らいで,大阪南地の妖艶な藝妓・蘆絵と二人で奈良・京都の小旅行に出かけることになる。蘆絵の美貌に悶々とし,食った玉子焼の悪腥さで嘔吐感に苦しむ木菟は,旅の宿で,蛇を提げた白呈晧研の年増美人(「年増」といっても,当時は二十五,六歳だろう),碁石で歯を叩く二人の綾羅金繍の舞妓少女を幻に見る。蛇の女妖 — 蛇で美人を縛ってその油を絞り取り,油を舐め,あるいは,碁石に絡めそれで歯を磨くことによって己の淫性を高めるという,遊女・藝妓の蛇神信仰について,物語の最後に因縁が語られる — に魅入られ,蘆絵は儚くなる。

ごくごく切り詰めると『紫障子』のあらすじはこのようなものである。主人公・木菟の異様な現在状況を説明するフラッシュバックと妖艶な女の幻影とが交錯した,鏡花怪異譚に相応しい構造をもつ物語である。シンプルな筋のわりに伏線が多く,その語りの細部の共鳴ゆえに複雑で入り組んだ印象がある。日常的情景と怪異との媒介をなす形象に碁石を使う意外性が,物語の異様・恐怖を掻き立てている。

しかしながら,私がこの作品で何よりも異様に思うのは,いつものあの艶麗な幽霊の姿 — もちろん,それはそれで読む快楽を覚えるんだけど — ではない。木菟と極上の藝妓・蘆絵との男女二人旅で,男女の関係が何も起こらないこと。蘆絵は大阪南の有名な藝妓ということになっている。大阪行き汽車の食堂車で蘆絵を認めた給仕二人が「南地だ」,「蘆絵さんだ」と口にする場面がある。つまり,蘆絵は相当な有名人というわけだ。いまの世態風俗で喩えると,主人公は有力者のコネで人気アイドルタレントと二人旅をさせてもらっているのとまさに同じような状況である。「南地だ」,「蘆絵さんだ」は,「NMBや」,「山本彩やんけ」と同じようなものである。しかも,女はタクシーを探すなど旅の世話を焼き,万事に好意的に木菟を扱ってくれる。それくらい非日常的で羨ましいくらいの幸運な状況にありながら,おまけに,ベッドの上でも恋愛遊戯を演ずる職業的覚悟を備えたであろう藝妓と相対しながら,木菟は,「あの婦を我がものに」と頭のなかでは悶々とするばかりで,実際には愛の行動を何も起こさない。超豪華な膳を饗応されて箸を付けない。私からすれば,これこそが怪異である。

空想に遊ぶばかりで,目の前にいる女に指一本触れられない,このウブな小心者。目の前にいる蘆絵の美しい姿,さらにはそこから主人公の幻想のなかで天翔る妖艶な姿について語るとき,蘆絵はいつも眠っていて(あるいは独りで化粧などをしていて),人間として主人公と対峙していないことに注意すべきである。蘆絵が話す内容や仕草から,その人となり,感情を観察し,生きている人間として蘆絵の美点を理解する — そのような人間的交感には,何らの関心も払われていないのだ。木菟は,語り合う相手の反応を観察しながら相手に魅せられて行くのではなく,自己との人間的関係性を喪失した,死にも擬せられる眠れる姿にばかり,女の美を見出しているのである。生きている女はまるで,この世のものとも思われぬ至高の妖美に昇華する様を頭のなかで想像するための契機でしかないかのようである。要するに,目の前の美人には目もくれず,ひたすら己の理想美を頭のなかで追い求めるかのような,非行動的な柔弱男子。

この主人公の柔弱さ・優しさ・性的不能ぶり(いまなら草食系男子というのだろうが)は,しかしながら,鏡花怪異譚主人公の典型である。ワンパターンと評してもよいくらいである。行動しないがゆえに,女と情交に及ばないがゆえに,主人公は無傷のまま「生還」する。『高野聖』(明治三十三年)の僧も,目の前の裸の美人に途方もなく心を奪われながら指一本触れられない小心者だが,女と一儀に及ばなかったおかげで,畜生に変じさせられることを免れ,語りの現在に生き延びている。

この不能・不作為を「精神的美しさ・高潔さ」と評する愚かな批評が多い。と思われるのも,泉鏡花批評の権威者である吉田精一が『高野聖』の僧の不能・不作為を「その愛情が淸く美しかったためである」(『高野聖・眉かくしの霊』岩波文庫版解説)などと断定しているからである。この「淸く美しい」なぞという馬鹿馬鹿しい説は,「汚らはしい欲のあればこそ恁うなつた上に躊躇するわ,其顏を見て聲を聞けば,渠等夫婦が同衾するのに枕を竝べて差支へぬ,それでも汗になつて修行をして,坊主で果てるよりは餘程の增ぢや」という僧の苦悶の言と矛盾する。旅僧は「汚らはしい」欲望を遂げたいと思いながらついになし得なかったに過ぎないのである。鏡花怪異譚主人公のタイポロジーを考えれば,行動なき柔弱者でしかないことが自ずとわかるのである。行動しないがゆえに無傷で帰還でき,だからこそわれわれに「語る」ことができるのである。『幻往来』(明治三十二年)の医学生も,記憶にある理想的女性を追いかけて吉原遊郭に通いながら,金で買っておきながら,理想美と食い違う遊女と一儀に及ぶことがない。

こんな男っているのか?— まったく信じられない。こういう非現実的なまでに「行動しない,一線を越えない」男,美人を前にして何もできない気の弱い男という性格こそ,その奔放な想像力が怪異に昇華するための幻視装置になっているのである。

私にはとても共感できない主人公である次第なのだが,その主人公の幻の至高の妖美には陶然とさせられる。

 ほの明りに綠を籠めた,薄紫の春雨に,障子さへ細目に開けて,霞の流るゝ庭の樹立の梢に對し,立つと人たけばかりの黑檀の綠の姿に片膝立てゝ,朱鷺色に白で獨鈷 [どっこ] の博多の伊達卷,ずるりと弱腰 [よわごし],鳩尾 [みぞおち] を縊 [くび] らし,長襦袢のまゝで,朝湯のあとの薄化粧を,いま仕澄まして,ト肱を撓 [たわわ] に脇明 [わきあき] を雪のやうに覗かせながら,油のやうな濡髮を,兩手に紅を飜して撫付けながら,
「ほゝゝ,貴方の方が色が白い。」
「御串戲 [ごじょうだん] もんだ,鬼が笑ひます。」
『鏡花全集』巻十九,岩波書店,1975 年,618 頁。[ ] 内は読み。原典の総ルビは割愛。

この『紫障子』でもっとも美しいくだりの直前に,木菟の幻想のなかで,空を飛んで行く木菟と蘆絵とが履物を取り替える場面がある。『高野聖』にも主人公の僧が清水で女に清められたあとの帰路で女と履物を交換するくだりがある。どうも,泉鏡花にとって,男女が履物を取り替える行為はエロティシズムの濃密な行為のシンボリカであるらしい。

『紫障子』,『幻往来』は次のちくま文庫版『泉鏡花集』にも収録されている。新字・新仮名遣いに改められているので,若い人にも読みやすくなっている。ただし,歴史的語彙に対して語注を施さない手抜き版で,東雅夫による解説も「魔性と聖性」なる通り一辺倒の,判で押したような鏡花礼讃に過ぎず,まったく面白くない。「ちょうど仁和賀も,後二三日で了になろうという頃だった」(『幻往来』)云々の「仁和賀」(にわか:旧暦八月に行われた吉原遊郭行事)に語注を付して言葉の説明をなさないで,この作品の季節感を理解できる現代の読者が果たしているだろうか。全集は信頼できるテクストを提示することが趣旨なので,解釈を左右する注解は二の次といってよいのに対し,古典的作家の作品を普及させるべき文庫本で語注を施さない手抜き版を見ると,私などはムカムカする。泉鏡花作品の文庫本はことごとくそのようなものである。泉鏡花は,幻想美ばかりを囃し立てられながら,じつはきちんと読まれていない古典作家というべきである。