梅雨だというのに雨霽れて涼しい日曜日,モーツァルトの後期交響曲集を聴きながら,岩波『鏡花全集』第二十二巻所収の怪異潭『眉かくしの靈』(眉かくしの霊)を再読した。『鏡花全集』は,表カバーに,雲母をひいた地の上に,桜,桃,梅と,紅葉賀の源氏香文様とをあしらった,美しい装丁である。
作品の季節は冬で,この日の夏の小休止にはそぐわないのだけれども,このところ荷風や江戸の暑苦しい淫靡な文藝に浸っていただけに,水も滴る鏡花怪談の冷気を浴びたくなった。
『眉かくしの靈』の舞台は木曾街道・奈良井宿山中の旅館。主人公・境は『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛と喜多八の顰に倣って,奈良井宿で蕎麦二膳を食いたくなり,宿を探し歩く。ようやく探し当てた宿で,鶇料理に舌鼓を打つうち,料理人・伊作,女中・お米を相手に,ある藝妓が木曾山中の霧深い空に美人の首を見たという怪異を語る。
翌日,境は腹を壊して宿に逗留することに決める。彼はふと,伊作が鷺に鯉を食われぬよう池を注視するのを,中年増女中(中年増といっても二十六,七だろう)と商人客とが床の間の炬燵を挟んで語り合っているのを垣間見る。洗面所の蛇口が三本無駄に水を垂れ流すのを不審に思い,栓を締めるが,しばらくするとまた水が出しっぱなしになっている。
水は,泉鏡花にあって,幻想的世界へ移行するスイッチである。
その夜,境は自分一人だと思って湯に入ろうとすると,女が湯を使う気配。引き返す。他の客はその湯に入るはずがないという女中の話。ちょっとした幽霊騒ぎ。夕食のあと湯殿に行くと果たしてまた女がいた。今度は「入りますよ,御免」と思い切るも,「いけません」と女にはっきりと拒絶され,境は怒って部屋に戻る。するとそこで,部屋の鏡のなかに,鏡台を斜めにして,眉を懐紙でかくした,鷺の化身のような白面の美しい女の姿が現れる。境はいつしか鯉の姿となって,女の袖に抱き上げられて空高くまで釣り上げられる...。
その怪異のあとに,伊作の語りが続く。桔梗ヶ原の美しい奥方と彼女を虐げる婆の生活について。婆の息子の学士が不在の間に起きた,彼の友人画家と嫁・奥方との姦通事件について。画家の情婦である柳橋藝妓・お艶が彼の間男疑惑を解こうと伊作に案内させて桔梗ヶ原に往く途中,伊作がお艶をひとりにしてしまった間に,彼女が猟師に猟銃で射殺された顛末について。境の見た眉かくしの美しい女妖はお艶の幽霊だったと落ちのついたところで,物語は終わる。
幽霊の因縁が明らかになる最後の伊作の語りは,人間関係がかなり入り組んでいる。ここで作品には,主人公・境の幻想と,もうひとつ,桔梗ヶ原の奥方とお艶との凄艶なる姿がもたらした伊作の狂と,二つの円環があるとわかる。思うに,その二つの円環が妖艶な眉かくしの女妖という同心で重なり合うところにこそ,この作品の恐ろしさがある。
物語の発端に『膝栗毛』の弥次・喜多が言及されているのは単なる飾りではなく,文学的パラレルとなって物語の二つの円環を暗示しているのである。境と伊作は,弥次・喜多のパラレルである。いうまでもなく『膝栗毛』は,日本の街道沿いの宿を舞台に,遊女,飯盛女,湯女などの風俗を巡って,抱腹絶倒の珍道中を繰り広げる物語である。『膝栗毛』の言及は旅における色事アヴァンチュールの雰囲気を『眉かくしの靈』のコンテクストに導入する。『膝栗毛』コンテクストという視点で『眉かくしの靈』を見直すと,境の期待感のなかで,お米が湯女に,中年増女中が宿で客と閨を共にする飯盛女に,なぞらえられていることがはっきりとわかる。
「それがね,旦那,大笑ひなんでございますよ。……誰方も在らつしやらないと思つて,申上げましたのに,御婦人の方が入つておいでだつて,旦那がおつしやつたと言ふので,米ちやん,大變な臆病なんですから。……久しくつかひません湯殿ですから,内のお上さんが,念のために,—」
「あゝ然うか,……私はまた,一寸出るのかと思つたよ。」
「大丈夫,湯どのへは出ませんけど,そのかはりお座敷へはこんなのが,ね,貴方。」
「いや,結構。」
商人客と炬燵を囲んでいた中年増女中と,境の会話である。これは,明らかに女が「今夜,私を買わないか」と艶めいて境を誘っているのに,彼は,わかっているのかいないのか,「いや,結構」とあいまいに断っている。その直後に湯殿で女の気配を感じて「お米さんか」と問うのは,お米=湯女,もしくはアヴァンチュールへの意識せざる期待感の現れである。ここで湯殿の女が「いゝえ」と返答したのを受け,アヴァンチュールへの期待感のまま,決意をもって身を委ねようと「入りますよ」と「思ひ切つて」言い放ったところが,女から「いけません」と境はきっぱり拒絶される。ここで温厚そうな人柄の境が「勝手にしろ」,「馬鹿にしやがる」と意外の口ぶりでもって怒りを露にする気持ちは,よくわかる。誘っておいて断るから「馬鹿にしやがる」という怒りになるのだ。これ,逡巡の挙句に意を決して遊女を買いに登楼したのに,素っ気なく遊女に振られたのと,まさに同じような状況に見えるのである(読みながら私は吹き出してしまった。断りなく一緒に風呂に入ればいいじゃねえか,この草食男子が!)。
色事への期待感はあるのに倫理観その他もろもろに邪魔されて,正直に目の前にいる女に手が出せない,そういう真面目で初心な,いくぶん見栄を張る,若者らしく屈折した境の性格が,ここには見事に表現されている。境は『膝栗毛』のアヴァンチュールをどこか期待していながら,その筋に乗れない初心な男という性格。この矛盾した心の揺れこそが妖しい幻想に化したとも解釈できる。心のうちで悶々とする男が,頭のなかで,美女のエロティックな幻想(眉かくしの女妖)に迷い,他者の恋路を指を銜えて見るはめに陥る(伊作のドッペルゲンガーとお艶の幽霊を幻視する)。心理上の幻想論理である。
これに対し,伊作は,現実に眼にした桔梗ヶ原の奥方,お艶のぞっとする妖しい美に狂わされる。
お一人,何ともおうつくしい御婦人が,鏡臺を置いて,斜に向つて,お化粧をなさつて在らつしやいました。
お髮が何うやら,お召ものが何やら,一目見ました,其の時の凄さ,可恐(おそろし)さと言つてはございません。唯今思出しましても御酒が氷に成つて胸へ沁みます。慄然(ぞっと)します。……それで居てそのお美しさが忘れられません。勿體ないやうでございますけれども,家のないもののお佛壇に,うつしたお姿と存じまして,一日でも,此の池の水を視(なが)めまして,その面影を思はずには居られませんのでございます。
伊作が宿の池をじっと見つめる理由 ー 鷺が鯉を食らわないか監視するのだというのではない本当の理由が,明らかになる。一方で,伊作はお艶の眉かくしの化粧の場に居合わせ「似合ひますか」の台詞を直接聞いている。伊作は現実の女の凄艶を眼の当りにして,狂ったのである。ここが幻視するだけの境の狂との根本的な違いである。性格の異なる伊作と境とは,別の途を辿って同じ女妖に狂わされる。この同心円のからくりが見事である。
『眉かくしの靈』には,思うに,遊女・藝妓といった玄人女のものあわれがある。お艶は,旦那の画家の疑惑を晴らしに往く準備で化粧をするに際し,柳橋の藝妓でありながら,眉を剃り,鉄漿(おはぐろ)を付け,そうして伊作に「似合ひますか」と言う。ここには,察するに,作品が書かれた震災後の大正では廃れてしまった既婚女性の化粧の習慣への,作者の懐旧情が現れている。と同時に,藝妓であるお艶のことさらに素人の既婚女性を装いたくなる心理が,正妻への憧れを現しているかのようで,ものあわれなのである。
「似合ひますか」という台詞は,己の非日常的装いについての他者への問いかけである — 非日常的世界に棲む遊女・藝妓にとって,地女=素人・普通の妻の日常的装いは,皮肉なことに,非日常である。だからこそ似合うかどうかを確かめずにはおれないのである。Wikipedia: お歯黒 によれば,遊女や藝妓は引眉をしなかった。
女のものあわれな情念と,男の現実的狂(実際に妖艶な女の姿に触れたがゆえに,外側から狂わされる伊作)・幻想的狂(耽美的想像ゆえに,内側から狂う境)とが,「似合ひますか」という台詞に結晶しているのである。ここに『眉かくしの靈』のいちばんの怖さがあり,ドラマがあり,造形の妙味がある。
さらに,文庫本なのに作中の歴史的語彙や文物に何の注釈も施しておらず,じつに怠慢というほかない。吉田精一の「解説」も,己の批評家としての「読み」を垂れ流すばかりで,これまた,じつにくだらないものである。
どうして岩波書店は,泉鏡花のきちんとした専門的「研究者」に「解説」(書誌的事実,現代読者の作品理解のための補足,文学史的位置づけの定説の整理,作品の歴史的内在論理の実証主義的考察,等々)を書かせないのか! 吉田精一などという,名前は通っているかも知れないが国文学研究においてはただのディレッタントに過ぎない「批評家」に解題を任せるから,このような,定本もつまびらかにされず,語注釈もない手抜きの普及版(全集の単なるマイナーバージョン)が出来上がってしまうのである。
「なら何故,岩波文庫版のリンクなの?」と疑問を呈する方には,「私の手元にあるから」としか理由を説明できない。ただただ安価・お手軽ということで。もとより,残念ながら,文庫の鏡花作品集は,思うに,「幻想美」云々にしか眼の行かないディレッタントの息が掛かった,この手の底の浅い版しか出ない。泉鏡花は,多くの崇拝者を生みながら,夏目漱石や森鷗外と異なり,きちんと歴史的観点で読まれてはおらず,ぞんざいな扱いを受けていると思わざるをえない。