『オネーギン』七章 — 読書追体験のモチーフ

「文は人なり」という言葉があって,その文章に人となりが現われるという意味で用いられるようである。私は,これはウソだと思う。文章を読んでわかるのは,それを書いた人が,論理的思考の持ち主かどうか,言葉の使い方に習熟しているかどうか,程度のことであって,人となり,人間性のありかを文章で判断するなんてできやしない。一方で,ある人の読書傾向は確かにその人の考え方や思想の相貌を知る指標になるように思われる。

プーシキンの韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』第七章に,女主人公・タチヤーナが愛しいオネーギンの旅立ったあとの主人のいない書斎を訪れるくだりがある。フランス小説の耽読で精神を培われたタチヤーナは,それまでは,オネーギンという人物像に小説的主人公を思い浮かべ,当てはめ,文学的フィルターを通してのみ,オネーギンという人間の現実的姿を理解しようとしていた。それは,ある場合は「わが救世主」となり,またある場合は「悪魔」,「誘惑者」,夢のなかでのエロティックな悪魔的形象になる。

ところが,オネーギンの書斎で彼の蔵書を片っ端から読むという行為を通して,タチヤーナはオネーギンの精神的相貌をはっきりと理解するに至る。

かくてわがタチヤーナは
高圧的な運命が
恋せよと命じた男の正体が
ありがたや 今は次第に
はっきりとわかりはじめた。
あの悲しげなしかも危険な変わり者
天国かそうでなければ地獄が創った
あの天使 尊大ぶったあの悪魔
彼はいったい何者なのか? 人真似か
取るに足らない幻か さてはまた
ハロルドのマントをつけたモスクワ人か
他人のむら気の注釈か
完備したはやり言葉の辞書なのか? ……
結局あれはパロディなのではあるまいか?
プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』木村彰一訳,講談社文芸文庫,1998 年,300 頁。

かくして,タチヤーナはオネーギンをチャイルド・ハロルドの「パロディ」だと結論づけた。

プーシキンはここで,人物の読書傾向の追体験を通してその人の真実に到達するモチーフに訴えている。精神において人間をしかと理解するに,己の好む特定の書物のフィルターを通してではなく,相手の好むたくさんの書物の集積の様相に基づいている。偽りの文学的フィルターに眼が眩んでいた女主人公が,ここで,他者の文学読書の追体験によって人間理解の醒めた真実に至る。私には恐ろしい皮肉に思われる。プーシキンという作家の文学観・人間観察の鋭さを見る思いがする。

愛する人を理解するにその人の読んだ本を読む。これは極めて知的,精神的な行為であるが,面白いのは,ここでプーシキンがこのタチヤーナの行為の過程にエロスさえ添えているところである。つまり,それは愛の行為でもあるのだ。オネーギンの書斎を訪れたタチヤーナの描写を見よ —

タチヤーナは自分の回りのあらゆるものに
感動の眸を向ける。
何もかも限りなく尊く思われ
あらゆるものが苦しみの半ばまじったよろこび
疲れた魂をよみがえらせる。
同書,295 頁。強調筆者。

「苦しみの半ばまじったよろこび」— これはエロティックな何かである。厳粛なもの,高尚なもの,詩的なものに,諧謔や猥褻や散文の要素をほんのりと加える — こういう複雑な筆致にこそ,私はプーシキンの人間理解への複眼的視線の確かさを感じてしまうのである。

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アレクサンドル・プーシキン
木村 彰一 訳
講談社 (1998/04)