ピエール・ルイス『アフロディテ — 古代風俗』

旧川崎宿・東海道を散歩したとき,一休みした喫茶店でピエール・ルイスの小説『アフロディテ』を読了。ピエール・ルイスは『ビリティスの歌』で有名なフランスの詩人である。

『アフロディテ』は,紀元前一世紀のヘレニズム文化の中心地アレクサンドリアを舞台とした,天稟の美貌を備えた娼婦クリュシスと,女王の愛人であるがゆえに権勢を誇る彫刻家・デメトリオスとの物語である。1896 年刊。女王の地上的愛に倦んだデメトリオスは,女王をモデルとして彼自身が制作したアフロディテ女神像に理想美を見出した。彼が恋するのは女神像のみである。そんなあるとき,彼は海浜でクリュシスと出逢う。クリュシスから,三つの欲しいものをくれたら身を任せてもよいと言われる。その要求は,ライバル娼婦バッキスの鏡を盗み,司祭の妻を殺してその櫛を奪い,神殿のアフロディテ女神像から真珠の首飾りを盗み,クリュシスに与えるというものだった。デメトリオスは地上的美に飽きたはずがこの犯罪的誘惑に乗り,すべてクリュシスの望むとおりに罪を犯し,櫛,鏡,首飾りを与える。これら罪の装身具を身に着けたクリュシスはアフロディテの生ける顕現となる。と同時に,捕えられ牢獄において毒死させられてしまう。デメトリオスはクリュシスの屍体をモデルに「不滅の生命」の彫像を作り上げる。ストーリーはこのようなものである。

古代ギリシアの明澄なる白日のもとに,美しい娼婦の肉体を飽くことなく,誇らし気に描写し,地上的女性の官能美を克明に描く。そこには男女の肉体的交接に付随する恥じらいも罪悪感もなく,人間の裸体は美であるだけでなく無条件の善でもある。ピエール・ルイスを読む楽しさは,女性の裸体そのものの優美さによっている。

「髪を結っておくれ」
 夕暮れ時の水平になった光線を浴びて,まだ湿り気を帯びて重い髪の毛は,陽光に照らされて光る驟雨のように輝いていた。奴隷女はそれを掌に取って捩じり上げた。それをぐるぐると巻き上げてゆき,髪は真っ直ぐな黄金の留め針が矢のように突き刺さった金属の大きな蛇のような形になった。それから緑色の細い紐を交叉させて三筋髪に巻きつけ,絹の光沢で髪のつやが一層映えるようにした。クリュシスは腕を伸ばし,磨き上げた胴の手鏡を持っていた。彼女は奴隷女の浅黒い手が豊かな髪の中で動いて毛の束を丸め,ほつれ毛を押さえて,髪全体を粘土を撚りあげて作った角杯のような形に仕上げてゆくのを,ぼんやりとしたまなざしで見ていた。髪が結い上がるとジャラは女主人の前に跪き,顔を近づけて彼女の秘所の毛を剃ったが,それはこの若い娘の体が彼女の愛を求めて来る男たちの目に,彫像の裸体のようにあらわに見えるようにするためだった。
ピエール・ルイス『アフロディテ — 古代風俗』沓掛良彦訳,平凡社,1998年,30-1 頁。

ところが,デメトリオスはこのような地上的・現実的女性美に飽きて,藝術的・理想的女性像に憑かれている。物語の後半,彼はクリュシスの願いを叶える犯罪を完遂したとき,夢でクリュシスを抱き天上的歓びを得る。一方,現実のクリュシスは屍体となって「不滅の生命」のモデルとなることでしか彼の関心を惹かないのである。この点 — 地上的女性美と理想的女性美の対立 — は,思うに,本作品の重要なテーマを巡って問題を秘めた部分である。本書の訳者・沓掛良彦氏は次のように解釈している。

 夢の中で愛するクリュシスとのこの上ない快楽を味わったデメトリオスは,現実のクリュシスを拒むしかなかったのだ。仮に夢から醒めた彼がクリュシスの愛を受け入れたら,彼は永遠にクリュシスの奴隷になるほかなく,また夢で味わった完全な快楽をもう二度と味わうことはない。デメトリオスはそれを怖れたのである。夢は現実にまさるということ,芸術の創造に従う者にとっては,所詮夢の裡にしか理想的な美は得られないということ — この小説で,芸術家としてのルイスがデメトリオスという人物に託して言いたかったのは,そのことだろう。
同書,391 頁。

え? 「夢は現実にまさる」? 何を言っているのか,このクソまじめな人は。ピエール・ルイスその人が作品の序文のなかでこだわっているのは,現実と理想の対立なんてアホみたいな「紋切型」ではなく,あくまで官能と道徳の対立から前者を浄化すること(あるいは,女性の肉体は美しいゆえに善であり徳でもあると一元化すること)である。だとすれば,作品の核心は,明らかに,この世にしかと存在する女性の肉体の官能美そのものなのである。描写からそれが匂い立ち,読者が陶然と生きる悦びを実感するのなら,これこそが藝術なのだ — そう解したほうが穿っている。私は,逆に,「不滅の美」に捕われる観念的な輩が目の前の本当の美しさを壊してしまう悲劇,とこの作品を解釈したい。間違っても,デメトリオスを作者の藝術観の代弁者などとは考えない。

デメトリオスのような,目の前の女性の美しさに目を留めず,「理想」を追い求め「夢」における「理想的」美女との性交の幻影に心を奪われるタイプは,私からみればただの「オタク」である。「きみのオッパイは,ま,きれいなんだろうけど,綾波レイに比べたら垂れてるってカンジ? やっぱりレイが最高だお」ってことを,女を前にしてこっ恥ずかし気もなく口にするオタク。自分の思い描いた「理想」でないと愛せないオタク。そして,デメトリオスの姿こそがルイスの藝術精神を体現していると主張する沓掛氏の解釈も,そんなオタクの鹿爪らしい文学的説教にしか私には聞こえない。『アフロディテ』のような,古代ギリシアの白昼の官能と東方的死臭・暗黒との見事な頽廃的融合を前にして,それそのものの美しさにうっとりとせずに,「理想美」,「絶対美」,「不滅美」など,持って回った観念的な概念を云々する解釈は,私には却って幼稚に思われる。

ピエール・ルイスはクリュシスの肉体そのもの,目の前の触れることの出来る女の体そのもの,ブロンドの髪,瞳,唇,うなじ,腕,乳房,臍,大腿,足先,そして股ぐらが,好きで好きで堪らないのだ。だから書かずにおれないのだ。それが沓掛氏には何故わからないんだろうか。そして,どうして素直にそれを受け入れられないのだろうか。序文のなかでピエール・ルイスにクソミソにコキ降ろされているのは,目の前の官能美を何かもっともらしい理屈(精神だの,理想だの,知性だの)で捏ね繰り回さないでは受け入れられない,ヘンな道徳と知的装いとに縛られた沓掛氏のような現代人にほかならない。

本作品の描写の凄い点は,女性の官能美を巡るものだけではない。愛欲の光景は,室内の約二名の肉体と所作,衣裳と調度の描き込みが主体となる。つまり,音楽的に喩えるなら,ソロの重奏と室内楽的伴奏とが主たる音響的特色となるのは,きわめて自然である。ところが『アフロディテ』のもうひとつの際立った特徴として,そうした室内楽的描写に群集の大規模な描写が意識的に挿入されることがあげられる。群集の多種多様な声,身なり,振舞の,まさにオーケストラの大音響。これは一,二名の俳優とコロス(舞踊合唱団)との掛合いで進行するギリシア悲劇の形態を髣髴とさせる。まさにギリシア演劇の構成原理が見て取れる。それは,例えば,次のようなくだりに見事に現われている。

 樹々の幹の間を抜け,草むらを通って,千人もの娼婦たちが四方から,おずおずとした羊の群さながらにゆっくりと前に進み,途方もない数に膨れ上がった彼女たちの群を,ただひとつのおののきがうねりとなって走った。
 浜辺に打ち寄せる波の規則正しい動きにも似て,最初の列は次に続く列へと絶えず場所を譲り,誰一人として,そこに居残って最初に死を発見し,それを人に指し示したくはないかのようであった。
 たちまち千人もの女たちの口から,遠くにまで届くほどの大きな叫び声が発せられ,木の根元に見出されたあわれな死体に,哀悼の挨拶がなされた。
 千本もの裸の腕が高く差し上げられ,さらにまた千本もの腕が差し上げられた。そして泣きながらこう叫ぶ声が聞こえた。
「女神様! わたしたちには罰を下されますな! 女神様! わたしたちに罰を下されますな!」
 絶望に駆られたある女の声が,呼びかけた。
「神殿へ行こう!」
 すると皆が一斉に繰り返した。
「神殿へ! 神殿へ!」
同書,295-6 頁。

ルイスの淫らな絵には,そうはいっても,現代日本の官能小説の臆面のなさはない。日本語では性器を「ちんこ」とか「まんこ」とか特別な名称で示すのに対し(この言葉自体で官能小説作品はお高く止まった教養人たちに「下品さ」を印象付けてしまうらしい。私は,ある TPO では無作法と思うだけで,これら言葉自体を「下品」だとはまったく考えない — それを口にするとき「下品ですみません」と一応の申し開きはしますけど。あ,下品ですみません),外国語では通常の猥談でも植物など事物の意味の転換で性器を示すことが多いように思う。同様にルイスの描写も隠喩に満ちている。外国人なら意味の露骨な喩えでも,日本人ならわかる人にはわかる程度のエロとなる。しかも,女性の淫らな肢体を比喩によって濃密に執拗に書き込む一方で,ルイスが性交を直截に描くことはまったくない。この点で,お行儀のよいわが国の読者にも,何の心配もなくこのエロ小説を勧めることができるわけである。

 浮かれ女は歌を続けた。
 
「かの女は紅の花のごとく,蜜と香りに満ちたり。」
「かの女は海に棲むヒドラのごとく,夜開きて生き,柔らかし。」
「かの女は湿り気帯びたる洞窟,常に熱きねぐら,人が死への歩みとどめて憩う隠れ家。」
 女奴隷は床に突っ伏して聞き取れぬほどの声でつぶやいた。
「かの女は恐ろし。そはメドゥサの顔。」
同書,35-6 頁。

私が翻訳者なら,「かの女は」なんて意味を混沌とさせる気取った擬人化はしない。「そは(それは)」と訳す。ここで「かの女」は「まんこ」のことだと沓掛氏が理解していないことはない,とは思うんですが...

アフロディテ―古代風俗 (平凡社ライブラリー)
ピエール・ルイス
沓掛良彦 訳
平凡社 (平凡社ライブラリー)