ここにしるしたとおり,金に困って,ミハイル・ブルガーコフ(1891-1940)の著作集三巻 М. А. Булгаков - Собрание сочинений том 1-3(Э. Проффер 校訂,注解)をネットオークションに出品した。1980 年代に米国 Ardis 社から刊行されたもの。この版は,本国ソヴィエトではこの20世紀の大作家の評価がまだ定まらず作品集も出ていなかった当時,はじめて刊行されたブルガーコフ著作集だった。『犬の心臓』,『運命の卵』では,ソヴィエト当局の検閲事情で削除された部分を完全収録している。私は学生時代に爪に火をともす思いで金を工面してこれを購入した。思い入れのある書籍である。上記の次第で,たいへん価値のある版なのだが,残念ながらオークションではいまのところ見向きもされない。ま,日本では当然である。
そのうち買手が付くかも知れないので,「お別れに」Дьяволиада(ディアヴォリアーダ)『悪魔物語』(1923 年発表)を再読した。もちろん,ロシア語で読み通すだけの集中力を失ってしまったいま,気になる部分だけロシア語版を調べながら,岩波文庫・水野忠夫先生による邦訳で読み通したのである。
『悪魔物語』は,正当な理由なく解雇されたマッチ工場の事務員・コロトコフが,彼を解雇した謎の工場長・カリソネルを追いかけるなかで,悪夢のような彷徨を強いられ,アイデンティティを喪失し,破滅する,そういう物語である。マッチ工場勤務にしがみついて平穏に一生を送りたいと願う主人公が給与未払いの憂き目に遇うところから人生を狂わせるさまを描く。マッチ工場なのでマッチの現物支給。「いつまでくよくよしてもはじまらない。せいぜい,マッチ売りに精を出すとしよう」。ワイン貯蔵所に勤める隣の女も,給与が支払われず,現物支給のワインの前で途方に暮れている。コロトコフは彼女に「そんなマッチ,どうせ火がつかないんでしょう!」と腐され,売り物にするはずのマッチを次々に試し擦りしてムダにしてしまう。隣の女もワインを売ろうとしたが売れず,結局全部,実家に帰る置き土産としてコロトコフにタダで与えてしまう。
悪夢のような幻想的光景はすべて,このような,惨めにして失笑を催す,アホみたいな諧謔的境遇に触発されていて,身につまされてしまうのである。ソフトウェア開発をするオレが現物支給なんて事態になったらどうなるんだ? 「弊社・戸籍管理製品パッケージ CD-ROM を給料相当の10セットを現物支給するからこれでガマンして」—「ハァ,そんなん個人でもろてどうすんねん」ってなもんや。マッチ売りの少女なら喫煙コーナーあたりで出ばっていればいくらか売れるかも知れないが,戸籍管理ソフト CD 売りのオヤジじゃなあ。
この作品はソヴィエト社会を諧謔的に描くものとして長らく当局から発禁処分に付されていた。全編,皮肉な笑いに満ちた,悪夢のような,グロテスクな,非現実的光景の連続である。いま読むと,ソヴィエト体制を批判し戯画化している,なんていう — よく言われれて来た — つまらない解釈では,この恐怖は他人事になってしまう。そうではなく,この物語を,現実が不条理に満ちていてあらゆることに違和感を覚えながらも,苦い笑いとともにそこに踏み留まっている人間の,心の表象の「リアル」として受けとめるべきだろう。
思うに,われわれが親しい幻想潭のパターンとして,日常のなかでふと奇妙な状況にさらされた主人公がその奇妙に取り憑かれて日常から非日常に滑り出してしまう,という構造を持つ作品が多い。幻想と日常との間の揺れ,振子運動にこそ人間精神の面白さがある。ところが,ブルガーコフにあってはこの二項対立がない。世界はすべてグロテスクな光景だけで成り立っている。というか,日常が常規を逸したところでは幻想的世界こそが表象のリアルになってしまっている。こういう逆説はロシアにしか生まれないように思われる。
М. А. Булгаков - Собрание сочинений том 1, Дьяволиада