映画『煙が目にしみる — 重松清『愛妻日記』より』を観た。2006 年アルチンボルド制作,亀井亨監督作品。不二子,木下ほうか主演。重松清の小説が原作である。R-18 指定のいわゆる成人映画,要するにエロ映画である。
私はピンク映画が好きで,この系統の女優・不二子の狂なる演技にもかねてから魅了されていたので,この DVD を借りたんである。しかし私は断言する。シネコンでロードショーに掛かる最近の邦画は — 観る前と後とで世の中に対する見方が寸毫も変わることがないという意味で — どれもみなクズのような作品であるのに対し,一部の好き者たちが集まるユーロスペースのような映画館で公開されるピンク映画にこそ,現代日本の病んだ人間性を認識させる好篇が多い。
『煙が目にしみる』は,傑作というにはあまりに造形が小さいのだけれど,そんなインパクトのある作品である。
リストラされた高橋(木下ほうか)は止めていた煙草を妻・千穂(不二子)の前で吸う。ショートピース。その臭いを千穂は狂ったように拒絶する。その後,彼女は夫と性交ができなくなり,家出してしまう。千穂の告白から,煙が燻るショートピースを女陰に差し込まれるという,高校生のころにホームレスのおじいさんから受けた性的イタズラに,その原因があると高橋は理解する。彼は夫婦関係を繋ぎ止めたいと願い,妻からときおり掛かって来る電話越しにテレフォンセックスのようなことも試みる。
高橋は,あるとき千穂の姉を通して,そのイタズラは実は千穂ではなく姉が受けたものだったことを知り,千穂のトラウマはイタズラが性的嗜好になってしまった姉に対する倒錯した羨望であるということに思い至る。高橋はホームレスの姿で妻を呼び出し,死んだヘンタイおじいさんと同じように,ショートピースに火を点けて妻の女陰に差し込んでは吸い,吸ってはまた差し込んで言う −「煙草がおいしいよ。あんたのまんこの味がする。きれいだよ。そのまんこは結婚するまで大事にしなくちゃいけないよ」。千穂は再びエクスタシーを獲得する。
何のことはない,ただのヘンタイ映画か,と思われるかも知れない。また,トラウマによる性的嗜好の障害はその原因となった事象を見つめそれを追体験することで救われるのかとも読めるのだが,この映画はそんな説教がしたいわけではもちろんない。もとより未成年女性にこんなヘンタイをするのは「犯罪」である。けれども,被害者女性が後年になってその追体験で性的絶頂に至るのは,病んでこそいるが,「悪」ではない。それくらい人間の性には奥行きがある。ヘンタイはヘンタイなんだけど,この映画は美しいってこと。
モノクロームのような樟んだ色調が荒んだ超時代性を感じさせて独特の美しさがある。千穂がショートピースを自販機で買いまくってそのまま捨て置いて行くシーンで,地面スレスレのアングルから彼女の脚だけを映す。病的行動の何気ない不気味さを印象づけていい絵だった。超時代性は,築 40 年くらい経っていそうな古風な洋風マンションや,夫婦が室内でも靴を履いている,日本では稀な生活様式や,公衆電話とダイヤル式黒電話とのテレフォンセックスや,トランジスタラジオから流れるアラビア語(多分)や,などなどに現われている。
超時代性において何より強烈なのが,千穂がイタズラされる場所が人間生活から吐き出された大量のゴミ,ガラクタが山のように集積した廃棄物処理場であり,その背景にあるのが巨大コンビナート・工場の煙突・配管の入り組んだ構造建築群,そこから吹き出す煤煙・炎である,ということである。
豊かな生活財を生産・廃棄するむき出しの機械性,醜怪さは現代的風景というよりも,時代を超えた物質社会的側面の象徴である。何か機械的人間存在の入出力の姿のようでもある。これは人間の排泄したウンコが脂ぎった鉄の塊になって四方八方に撒き散らされている世界である。生まれながらのホームレスを懐胎する子宮である。
それなのに。この風景は醜怪にしてなんと美しいのか。このピンク映画は,テレビドラマやシネコン・ロードショーが逆立ちしても造形できない美しい映像を,さらっと見せてくれるのだ。最近,こうした風景を愛する「工場萌え」という趣味が認知されており,クルージングが企画されるくらいであるという。私も少しその気があるからか,「工場萌え」の人にとってはこの映画の風景は堪らない魅力になると確信する。
出勤を装うリストラされた主人公・高橋は駅舎のベンチで女子高校生が喫煙しているのを咎める。その次の映像で彼はその高校生に男根をシゴかれている。手に付いた精液を汚らしげに拭いながら女子高生は掌を上にして高橋に突き付ける。彼は財布から躊躇いがちに二枚紙幣を抜いて差し出す。「オジサン,女子高生に手コキさせといて何? ケタがひとつ足んないよ!」と彼女。なのに「いいよ千円で」と言って彼女は立ち去る。— パンピーが一大決心をしてパンピーらしい薄っぺらい正義感を発揮し,その直後にパンピーらしく簡単に性的誘惑に屈してしまう,悲哀と失笑を催すシーンである。女子高校生も不良には見えないまったく普通の風情であり,しかも性的サービスを施した相手に対し過剰な妥協をしてしまうところが,パンピー的ヘンタイぶりを強調している。
ところで,この場面の場所は川崎 JR 鶴見線・浅野駅舎である。浅野駅以外にも JR 鶴見線の海芝浦駅(海に接した珍しい駅舎である)も出て来た(以前,この両駅舎の散策記をここに書いた)。川崎市民である私は,この映画の荒涼たる風景が地元・川崎の臨海地区であることがすぐにわかった。そういう点でもこの作品に愛着を覚えた次第である。