5 年程前『漢文の素養』を読んで以来,私にとってその著者・加藤徹はもっとも優れた中国古典文学案内人のひとりになっている。NHK 教養バラエティ『カンゴロンゴ』で馴染みのある方もいると思う。彼は,『漢文力』で正統的中国古典を扱ったのち,怪力乱神にまつわる中国の伝統について『怪の漢文力 ― 中国古典の想像力』を著してくれた。
『怪の漢文力』は,人体,霊魂,生命の変身・復活,性,天体・宇宙などに関して,古代から語り継がれて来た中国人の思想と想像力を語る。個々の内容は,いわゆる著者独自の統一的視点に立ってテーマを掘り下げたモノグラフというよりも,『漢文力』という題名のとおり,中国古典の断片に対する個別テーマに関する解説といったほうがよい。雑学的親しみ易さがある。それでも本書は,深い学識に支えられて,中国文学の偉大な伝統の魅力を堪能させてくれる。
本書には興味深いモチーフが鏤められていて,感心すること頻りなんであるが,私がとくに感銘を覚えたところをひとつだけ引用しておく。それは『荘子』内篇冒頭にある,あの有名な鯤と鵬の謎めいた逸話の解説である:「北冥に魚有り,其の名を鯤と為す。鯤の大いさ,其の幾千里なるを知らず。化して鳥と為る。その名を鵬と為す。鵬の背,其の幾千里なるを知らず」云々。著者によれば,ここには「古代中国人の自然洞察が隠されている。ミクロとマクロ,微視と巨視は,実はつながっている,という宇宙観」がある(本書,p. 155)。
「昆」([ 中略 ])の字源は,「日(太陽)のしたに比(人が並ぶ)」である。仲間が群れをなして集まってまとまる,というのが原義。混(まじりあってまとまる)・渾(カオス的にまとまる)・群(むれをなしてまとまる)も昆と同系。[ 中略 ]
「朋」([ 中略 ])の字源は,貝殻を重ねて紐でつないだものを,二つならべた象形文字である。同等の小さなものが整然とならぶ,というのが原義で,のちに「友だち」の意味になった。並(ならぶ)・併(二つにならべてあわせる)・倍(二つならぶ)も朋と同系。
『荘子』冒頭のこの文章は,表向きは一匹の巨大魚が一羽の巨鳥に変身するというイメージを描きつつ,その裏には,海中の無数の魚の群れが,無数の小鳥の群れに変化する,というもう一枚の隠し絵を重ね合わせている。現代風に言えば,水の分子が集まって海となり,蒸発した海水の分子が集まって台風のような雨雲をなす,というイメージである。
『荘子』の解説をいろいろ読んだ気がするが,こんなに我が身に引きつけて理解させてくれたのは本書をおいてない(私の勉強不足に過ぎないのかも知れないが)。
日中戦争中の西村真琴と魯迅との心温まる友情の逸話など,その他にも面白い話がたくさん掲載されているので,是非本書をお読みいただきたい。魯迅が西村に送った詩の一部を引用しておく。
度尽劫波兄弟在 劫波を度り尽くして兄弟在り
相逢一笑泯恩讐 相逢うて一笑すれば恩讐泯びん
[ いつか両国の民草は,長く悲惨な歳月を乗り越え,兄弟として再会する時が来るでしょう。互いに一笑すれば,きっと深い恨みも消えることでしょう。]
いま現在,残念ながら,日中両国間の恩讐は増幅される一方である。日本人は富国強兵を果たし,日清戦争で勝利して以来,江戸時代まで抱いていたような中国文化に対する深い尊敬を(ごくごく少数の教養ある人たちを除いて)一般には失ってしまった。これは私の勝手な意見ではなく,ドナルド・キーンが『日本人の戦争』で指摘した達見である。私は,それがすなわち日本の伝統の死をも意味している,と痛感している者のひとりである。中国の伝統は,ヨーロッパ人にとってのギリシア,ローマ,ラテン中世,ビザンティンの文化と同じく,日本人にとって自身の伝統の欠けてはならない一大潮流なのである。