А. С. Пушкин «Медный всадник» − 震災を顧みて

東北大震災のクライシスのあと,あまりにショッキングだったせいか,思うところがあり,ロシアの詩人,アレクサンドル・プーシキンが 1833 年秋に書いた叙事詩『青銅の騎士 — ペテルブルク物語』— А. С. Пушкин «Медный всадник - Петербургская повесть» を再読した。本作品は,ソヴィエト科学アカデミー版プーシキン全集で,タイトル頁等のスカスカ頁を含めても,たった 16 頁しかない叙事詩である。朗読しても 25, 6 分。なのに,恐るべき傑作として世界文学史上に輝いている。

題に『ペテルブルク物語』とあるように,いわゆる叙事詩とは距離をおいた新しいジャンルを作者は意図しているのではあるが,作品全体が四韻脚弱強格の韻文で書かれている。「詩」というものに「美辞麗句」や「型に嵌った紋切型」のようなことしか連想しない現代の小説読みにはわからない,構造的ダイナミズムがあるのだ。

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主人公・エヴゲーニイは,地位も金もない入庁三年目のペーペー公務員である。神に知恵と金を授けてもらってそれなりに独立と名誉をかち得て,恋人と結婚する,ささやかな家を設けて平和に暮らす,ともに老いてともに墓に入る,孫たちに弔ってもらう — 彼の思いはそのようなものだった。

「結婚? 俺が? もちろんそれは重荷だ,でも俺は健康だし夜昼働くつもりだ。世の中にはバカで怠け者のくせに楽チン生活しているシアワセな奴がいるじゃねぇか,いったい何なんだ!」— エヴゲーニイのこの独り言,なんと身につまされることか。この叙事詩の主人公はまさにこのような善良な小市民である。

ところが,彼は,1824 年 11 月にペテルブルクで発生したネヴァ河の大氾濫のために,恋人を失ってしまう。家屋が流され死体がごろごろ転がる氾濫の恐ろしい傷跡を目の当たりにした主人公は,発狂し,恐ろしい記憶に苛まれつつ,我が身を引きずるようなホームレス生活を送るようになる。

時が経ちある秋の夜 — おそらくは 1825 年 11 月,デカブリスト蜂起失敗の直前だ — 埠頭で寝ていると,雨と風の音のなかで呼び交す哨兵の声で,突然あの洪水の日をまざまざと思い出す。気がつくと彼は元老院広場に佇んでいる。目の前にはピョートルの記念碑・青銅の騎士像。主人公は洪水の大量死を,このペテルブルクという都市を海辺に建設したピョートル大帝の幻影に結びつける。「この野郎,思い知らせてやる!」と悪口雑言を騎士像に浴びせる。

すると,ブロンズ像が恐ろしい形相で彼を睨みつけ,馬を駆って彼を追いかけてくる。主人公は逃げ回り,その果てに野たれ死ぬ。彼の死体は死んだ恋人の壊滅した家の敷居で発見され,無縁仏(ロシア語では「神のために」)として葬られる。

『青銅の騎士』の筋書きはこのようなものである。東北大震災の津波の大惨事を見た者には,この作品の悲劇性を共有しないではおれないはずである。偕老同穴・孫に弔われるというささやかな夢が,洪水で壊滅した家という死に場所を恋人と共有し「神のために葬られる」姿に終わるというあまりに残酷な皮肉 — 涙を禁じ得ない。

とはいえ一方で,エヴゲーニイがピョートルの幻影に天災の不幸の責めを負わせてしまう筋書きは,内在的論理抜きにそれだけを単純に眺めると,東北大震災の責任を菅総理あるいは政府に転嫁するようなただの短絡バカにしか見えないかも知れない。オマケに叙事詩の主人公というものは貴族階級のエリート的英雄こそが相応しかったのに,『青銅の騎士』では主人公は我々のようなどこにでもいるただのパンピー小市民であって,いよいよ喜劇的バカに見えてもおかしくない。

しかし,天災発生の結果,原子力発電所で事故が起こり,このため多くの市民・家族の生活が破壊されたとなると,話は別である。ここには何か深遠な問題 — エネルギー確保と核技術の維持という国家の論理と国民生活との調和という大問題 — が立ち現れる。現在,日本人だけでなく世界中の人々が原発問題を議論している次第である。

よく読むと『青銅の騎士』でもエヴゲーニイと青銅の騎士像とのコンフリクトにおいてこれに類する国家権力の問題提起を読み取ることができる。わざわざ水はけの悪い海浜の沼沢地にピョートルが首都を建設した主たる理由は,スウェーデンという強国の目と鼻の先に軍事都市を設けることで敵国を威嚇する軍事目的だった — 作品には「深淵の上に高く立ち,鉄の手綱を引きながら,ロシアの国を後脚だちに立たせた」との詩句がある。それゆえにこそ,この現代に読んでも,この作品の厳粛で悲劇的な物語性に唸らされるのである。

私は認識した,青銅の騎士は現代の原発であり,深淵の上に国を後脚で立たせるような危ういものであり,エヴゲーニイは現代の日本国民である,原発の恐怖に我を失って巷を彷徨するエヴゲーニイたちがいま東北地方に大量に出現しているに違いないと。

今回の再読で,私はいくつか発見をした。


  • ヨハネ黙示録の神話的物語構造が認められること。ネヴァ河氾濫災害の発生はロシア暦 1824 年 11 月 7 日,つまりヨハネ黙示録に登場する大天使ミハイルの日の前日である,青銅の騎士は「蒼白い馬に乗る騎士」のイメージがある,等々。

  • 『序』の漁師の言及は,ペテルブルク(「ピョートルの都市」)の旧世界は漁師であったペテロ(ロシア語でピョートル)の居住地であるという表象を,つまり聖書的神話構造を強調していること。

  • 聖書的物語構造に立脚するがゆえにこそ,しがないパンピー主人公がペテルブルクと対峙することを通して,イエスと関与したペテロのように,エーリッヒ・アウエルバッハが『ミメーシス』で謂うところの大きな「振子運動」を起こして,神的なまでの悲劇的昇華を果たすこと。

  • 発狂したエヴゲーニイが青銅の騎士に追いかけられる筋書きには,秘密警察による監視・迫害の寓意が付加されていること。騎士像を囲む格子に顔を押し付けるエヴゲーニイの描写は,牢獄の鉄格子に捕われる政治犯の姿の寓意である。この作品にはスパイ小説のような魅力もあるのだ。

  • エヴゲーニイの元老院広場での反抗と挫折にはデカブリスト蜂起が暗示されていること。元老院広場という場所と,エヴゲーニイが洪水発生で発狂してから一年後の秋という時とが,それを如実に示している。(これは様々な研究者も指摘するところだが)

  • ペテルブルクという都市とエヴゲーニイの葛藤は『エヴゲーニイ・オネーギン』八章におけるタチヤーナとオネーギンの葛藤の問題論の継承であること。タチヤーナはロシアの魂をもちながら継子のようだと描写されているのに対し,ペテルブルクは自然の継子とあり,両者は同じ類型である。


などなどについて,かなりの確信が得られた。一部は前から考えていたことである(ここにも少し書いた)。ここでグダグダそれらの論証を綴ってもしようがない。きちんと文献学的に検証して論文の形にしたいと思い,いま参考文献を漁っている。そして,プーシキンというロシアの古典的作家の偉大さに,改めて恐れおののいているところである。いまの私の流行語は Ужо тебе!(ウジョー・チビェー!=この野郎,思い知らせてやる!)。ニュースで民主党政権の無様な不作為を見るたびにこれを発しているんである...

青銅の騎士 (ロシア名作ライブラリー)
アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・プーシキン
郡伸哉 訳
群像社