プーシキン『青銅の騎士』

プーシキンの叙事詩『青銅の騎士』は,ペテルブルグに住む下級官吏がネヴァ河の氾濫のため恋人を失い,その後発狂してピョートル像に追われ野垂れ死ぬという物語である。『エヴゲーニイ・オネーギン』とともにプーシキンの,世界文学史上に残る傑作とされている。

作品の主人公エヴゲーニイ(『エヴゲーニイ・オネーギン』の主人公と同名である)は十四等官下級官吏。地位も名誉も金もないサラリーマンのような存在である。同時代を描きつつこのようなしがない一般人を主人公とすること自体が,叙事詩という高級なジャンル伝統からもロマン主義的流行からも大きく逸脱している。

エヴゲーニイは貧しい我が身を思って眠ることができず,そして詩人のように溜め息をついた,とある。「詩人のように」という句のやるせない諧謔。こうした諧謔や,ピョートルの都を讃える明るい古典的詩行が融合しているにも拘らず,この作品を読むとその厳粛性,悲劇性に,涙に咽ぶ思いを禁じえない。これは単に主人公が死に至るという単純なことによるのではない。そこには,イエスの捕縛ののちその仲間であることを三度否認したペテロ,ごく普通の漁夫でしかなかったペテロが,イエスの存在と対峙した瞬間に,厳粛で,悲劇的な全人類的高みに昇華していく,あの — アウエルバッハが指摘した — 聖書の物語構造に似たものがあるからだと私は思う(※)。ペテロとイエスの関係は,この作品ではエヴゲーニイと都市ペテルブルグ(近代ロシアの建設者ピョートル大帝の象徴)なのではないか?

『青銅の騎士』は,その後のゴーゴリ,ドストエフスキイの都市幻想あふれる文学的系譜のルーツだといってよいと思う。それがプーシキンの創作過程のなかでどのように形成されたのかは興味深いテーマである。これを解き明かす鍵のひとつは,エヴゲーニイを『エヴゲーニイ・オネーギン』におけるインテリジェントな貴族(セレブ)から,とりえのない十四等官(パンピー)に貶めなければならなかった詩人の深い社会観・歴史観だと思う。ではそれはいったい何なのか。英雄的な人物よりもただの一般人に深淵を見出す芸術観は何によってくるのか。

※ その後考えれば考えるほど,『青銅の騎士』におけるキリスト教のモチーフが気になるようになった。ネヴァ河の氾濫はノアの洪水,ピョートル像はヨハネ黙示録に出てくる,蒼ざめた馬に乗る死とそれぞれ観念連合する。だれかがすでに指摘していることかも知れないが,私なりに面白いテーマである。(08.10.24 付記)

※ その後,東日本大震災のショックのなかでこの作品をロシア語で再読し,記事『А. С. Пушкин «Медный всадник»』に書いた。(11.7.7 付記)

青銅の騎士 (ロシア名作ライブラリー)
アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・プーシキン
郡伸哉 訳
群像社

日本人は観念的で深遠そうなものが — たとえ理解できなくても — 大好きなので,ロシアの作家ではプーシキンよりもドストエフスキイのほうが「圧倒的に」人気がある。しかしロシアではプーシキンは近代ロシア文章語を確立した「ロシア文学の父」として崇拝されている。あのダンテ — トスカナ方言を文学言語に高め,ヨーロッパ文学の巨星として讃えられる大詩人 — と同じ扱いである。その研究文献の規模の壮大さはドストエフスキイの比ではないのだ。その感覚は日本人にはちょっと解らない。一方,プーシキンはピョートル大帝に連れて来られたエチオピアの黒人奴隷の血をひいており,詩人自身そのことを大いなる誇りとしていた。そういう「純血」とはいいがたいプーシキンを国民的誇りとして愛しているところにも,私はロシア人の懐の深さを感じないではいられない。

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アマゾンの評価で,ちょっと頭に来ることがあったので付記。

上に掲載した翻訳書は郡伸哉先生による新しい訳である。先生は著書『プーシキン — 饗宴の宇宙』(彩流社, 1999年刊)において饗宴(酒盛)というキーワードでプーシキン独特の世界を巧みに把握,解説してくれた優れた読み手なんである。ロシア人以外でこうした「面白いプーシキン論」を展開できる人はまれなのだ。

ところが,この『青銅の騎士』他の翻訳についてのアマゾンにおける評価は低い。つまりアマゾンの評価は信用ならないということである。評価の内容を確かめると,ひとつは誤植をことさら非難する,あまり本質的とはいえないものである。「ここからスウェーデンを脅かそう」という訳がヘン,なんてそれこそ評者の言語感覚を疑わせる言をなしている。まあよかろう。

もうひとつの投稿は「賢そうにみえる」だけもっと質が悪い。曰く「しかし,小説という表現方法が確立されてしまった現代では詩や戯曲や詩劇などは受け入れられがたいのも事実である。それを考えるとどうしても私の評価は星三つになってしまう」。小説を詩や戯曲などと同列に扱い,しかも小説以外のジャンルを現代では「受け入れられがたい」と決めつけ,それを「事実」だとして憚らない軽卒な理屈はいったい何なのか。短歌や俳句の書籍はすべて星三つということらしい。なぜ投稿者は「詩や戯曲や詩劇」をそれそのものとして読み,アマゾンの評価に反映しないのか。こういう論法は,中身を確認せずに,個別事情をその都度見極めずに,ものごとを「頭ごなしに判断する」人間のものである。あるいは,中身をみても解らないのに自分のテリトリーのものとは異質なことだけには気づく自己満足。投稿者は「ドストエフスキーなども」耽読していると書いている。まさに先入観でもってドストエフスキイの深遠さに見蕩れているだけで,実は本をあまり読まない人らしい。

プーシキンも言っている —「すぐれた寸鉄詩は悪しき悲劇よりもよい......これはどういう意味か? よき朝食は悪天候よりもよい,などと言えるのか?」(「書簡からの抜粋および思索,意見」川端香男里訳 —『プーシキン全集』, 巻5, 河出書房新社, p. 34)。

ま,勝手なひとが勝手なことを書き散らすことができるのもインターネットの民主的なところ。私だってその勝手なひとりである。単なる個人的見解にいちいち反応していては疲れてしまう。しかしこと私の好きな作家について悪し様に書いているのを発見すると毒づいてしまう。