集英社から出ていた『古典俳文学大系』所収の三冊を古書で手に入れた。『蕉門俳諧集』一及び二,そして『蕉門俳論俳文集』。集英社は『週刊少年ジャンプ』で儲けて,赤字垂れ流しでこういう本を作る。関係ありませんが,もうひとつ言うと,ベースボールマガジン社は『ベースボールマガジン』で大儲けする一方で,恒文社という版元名でロシア文学の良書を出して赤字を垂れ流す。わが国の出版文化の,しかもお国の強制とは無関係の面白い習性である。
このシリーズは私にとって垂涎ものであって,高価でこれまで手が出なかった。これだけはと思う巻を個別にアマゾンのマーケットプレイスで見つけて購入したのである。『芭蕉七部集』以外の,たとえば『虚栗』などの俳諧書や,『去来抄』・『三冊子』以外の芭蕉高弟による俳論は,文庫本などの簡易な形では読むことが出来ない。本大系本は芭蕉関係論で言及される作品をほぼ収録しているんである。
芭蕉の連句・俳句の理解のために少しずつ読みたいと思っている。とりあえず,郵送されて来てすぐ『蕉門俳論俳文集』を斜め読みしていたら,『二十五箇条』の『仮名遣ひの事』が眼に留まった。この書は解説によれば「従来秘伝書として伝写を重ねて来たもの」で,「内容は蕉門の作法書・俳論書として大方不都合な点はな」い。蕉門十哲のひとり各務支考が纏めたものだろうとある。
世に定家卿のかな遣ひといふものあれども,あまりに繁きゆへ(ゑ)にまぎれてしれがたし。むかしはかなづかひの詮義(議)もなけれ共,其後の事なれば大概しりて,埒の明事なり。されば,はいかいには,さむふとも,あつふともかくなり。さむう・あつうと書ては,かな書の経文見るやうにてわろし。此類は心得あるべき事なり。
岩波文庫で芭蕉の句を読んでいると,歴史的仮名遣いから外れる表記に頻繁に出くわす。たとえば,「さとのこよ梅おりのこせうしのむち」(貞享四年)。「おりのこせ」の「お」は,「折る」の歴史的仮名遣いならば,「を」が「正しい」ことになっている。『旧かなづかひで書く日本語』の著者・萩野貞樹ならば,「降り残せ? 意味不明」と宣うに違いない。国語が専門のくせに,実態を無視して形式にこだわる哀れな学者先生なんである。
この時代は「実態としての仮名遣い」(築島裕『歴史的仮名遣い—その歴史と特徴』による)が主であった,要するに正書法が確立していない実用本意の仮名遣いの時代であった,という認識しか私にはなかったのだけれど,文藝に関る者には独特の統制があったことを『二十五箇条』のこのくだりは示している。ここにあるのは,「正しい」仮名遣いなんて概念ではなくて,「経文」を連想させたくないという「スタイル」の議論である。「正しい」かどうかなんて気にするはずがない。何故なら,正否の判断を分ける「ルール(正書法)」がまだ確立されていなかったのだから。
ここで「正しいかそうでないか」は無意味だというのを「相対主義」っていうんでしょうかね? そういうバカがいるんである。ま,それはそれとして,『二十五箇条』を読み,古典において書き言葉に意識的であるとはこういう立場なのかと私は感心してしまった。
蓮實重彦 — 私はその文体が大嫌いだが言説についてはいたく尊敬してもいる — が,フローベールの書翰についてたいへん面白いことを書いている。フローベールは若き日に熱愛した娼婦からの手紙にあった綴り誤りについて(彼女は作家への純な愛を書き綴るとき,automate を otomate と書いた),後年,綴り誤りに対する軽蔑と階級的優越感を愛人に書き送っている。これに対する蓮實の分析は以下のとおり。ちょっと長大な引用ですみませんが,仮名遣いを考えるにあたっても,きわめて示唆的で鋭い。
つまり,正しく書くことがフランス語にとって知的財産と見なされうることになったのは,十九世紀前半のことにすぎないというわけだ。そして,一八四〇年に十八歳であった地方都市の青年ギュスターヴ〔フローベール:私註〕は,正しく綴ることが階級的符牒となった第一世代に属しているのである。その子弟をパリの大学に送って勉学を続けさせようとするほどの地方のブルジョワジーにとって,いまや正確な綴字法の習得が一つの知的資産となったわけだ。更にいうなら,階級的差別の新たな指標がそこに形成されたとでもしようか,とにかく,automate と otomate,catégorie と cathégorie をめぐる挿話は,そうした歴史的な文脈で捉えられねばならないのだ。一見,言葉への潔癖な姿勢かと思われるギュスターヴの中には,一つの政策として普及したばかりの綴字法を介して,無意識のうちに社会的抑圧に加担する加害者の姿が,その新興ブルジョワジーとしての階級意識として露呈されている。彼は,たった三代ほど昔の自分の祖先が,その姓を Flobert とも Flaubert とも綴ったことを知らずに,そこに見られるのと全く同じ母音の綴りをめぐって,automate と otomate の書き違いを許すことができない。現実に発音された場合は,ほとんど違いとして響くことがなく,ただ,ラテン語の知識があればこそ人が auto- と綴りうる一語へのこのフローベールへのこだわりが,自国語への愛の一形態だとするなら,その愛は,明らかに捏造された政治的な虚構にほかならぬ。
「正しい」綴りや仮名遣いへの執着は近代人の幻想でしかない。実際の生きた言語の姿を,国語というフィクションを通してではなく,根拠のない立脚点を離れて正視せよ,と蓮實はいうのである。なんか「正字正仮名」とやらの戯言をそのまま批判しているように私には思われる。「彼は,たった三代ほど昔の自分の祖先が,その姓を Flobert とも Flaubert とも綴ったことを知らずに,そこに見られるのと全く同じ母音の綴りをめぐって,automate と otomate の書き違いを許すことができない」ー「『正字正仮名』信奉者はたった三百年あまり昔の芭蕉が,俳句で『おりのこせ』と綴ったことを知らずに,そこに見られるのと同じ音の仮名遣いをめぐって,『を』りのこせと『お』りのこせの書き違いを許すことができない」。ちゃんと古典を読んでから「傳統」を語ってくださいまし。