ロシア重要単語 2200

久しぶりにロシア語の単語集のおさらいをした。白水社から出ている『ロシア重要単語 2200』である。著者は佐藤純一先生,木島道夫先生。本書は 1983 年の初版で,2009 年に大改訂された。このテの参考書で改訂版が出ること自体,評価が高い証左である。私は妻が大学時代に使っていた 1983 年旧版を読んだ。ところどころに日付が書き込まれていて,妻はきちんと勉強していたわけ。感心。

単語集はどれもある程度統計的考慮の上にたって収録単語を選択しているものである。そして,基本単語 2000 というのが日常生活で困らないレベルだと,どこかで聞いたことがある。たった 2000 語である。私は大学時代の詰込み教育のおかげで,会社に入って 20 年以上経過した現在もロシア語を読むのにそれほど苦労しない。けれども,学生時代はロシア文学・専門的研究書を読むばかりで,話したり書いたりする日常的運用スキルの訓練をないがしろにしたため,実生活に即したロシア語が情けない限りなんである。определить (定義する) などの硬い言葉はそれなりに日露・露日で出て来るのに,огурец (きゅうり) なんてのに「なんだったけかなぁ」という恥ずかしい有様。外国語の単語学習は現実世界とのかかわりで意識的に詰め込まないといけないようである。

『ロシア重要単語 2200』はアルファベット順の単語配列になっている。よってもって頻度・重要度順配列,テーマ分類(植物,コンピュータ,など)配列に比べると読み進めるに際して極めて退屈な方式になっている。「え,まだアルファヴィートの г なの?」ってな具合に,先行きが遠大に見えてしまって意欲が殺がれてしまうのだ。ま,簡単な辞書としてアクセスもできるわけだけど,記憶のための単語集なんだからそんな使い方をするとは思われず,この構成だけはもう少し考えてほしかったと思う。

それでも本書は,IPA 発音記号がきちんと示されており,語義分類(だらだら意味を並べるのではなく,使い方・語義ごとに数字を振って分ける)がなされ,すべての単語について語義に応じた例文を掲載している。巻末の語形変化パターン表も,具体的単語で総覧しておりそれ自体読むに値する。さらに,ある重要語については用法の注意事項を簡潔に記してあり,中級以上の学習者にも有用である。例えば,чтобы (...するために) には「従属文中の動詞は過去形ただし主語が一致するときは主語を略して不定形を用いる」とあり,私なんか温故知新の感銘を受けた。これらの美点は他のロシア単語集の追随を許さない。さすが辞書を編纂された先生の教育的ポリシーは一貫しているんである。

1983 年版はまだソヴィエト連邦の時代に編まれた。それを反映してか,たった 2200 余の最重要単語のなかに,社会主義体制特有の単語が大量に含まれている。軍隊用語が多いのも特徴である。пятилетия 五カ年計画, колхоз コルホーズ, комитет 委員会 (КГБ: Комитет Государственной Безопасности = KGB のそれ), райком 地区委員会, коммунизм 共産主義, буржуазия ブルジョアジー, пролетариат プロレタリアート, артиллерия 砲兵隊, снаряд 弾丸, винтовка ライフル銃, лейтенант 中尉, капитан 陸軍大尉, etc., etc., и т. д., и др. などなど。これらはすべて 2009 年新版では姿を消してしまっている。例文もまた「ソ連」してくれているんである。При социализме в управлении государством участвуют широкие массы трудящихся. (社会主義の下では国家統治には広汎な勤労大衆が参加している); Страны социализа [sic] играют всё более значительную роль в мировой экономике. (社会主義諸国は世界経済でますます重要な役割を果たしている); В классовом обществе мораль имеет классовый характер. (階級社会においては道徳は階級的性格を帯びている)。新版ではやはり,例文が差し替えられるか単語自体が収録対象から外れた。

なんで旧版のことをこうまで記すのかというと,言語も世につれ人につれというのが,ロシア語ではありありとわかって,いたく面白いからである。新版では上記のクソ面白くもない単語に代わって,артист (芸能人), компьютер (コンピュータ) など自由主義体制・情報化時代の要請に応える単語が新たに収録された。そういう意味でやはり新版のほうが学習書としての価値が高い。一方,旧版は新書サイズの二色刷になっていて,背広のポケットに入り,移動中のお勉強にも最適であった。新版は B6 変形サイズとなってしまい,ポケットには入らない。新版はここにいちばんの問題があるように思われる(CD を付録にするためにこうせざるを得なくなったのだろう)。

今回本書を通読して,学生時代の恥ずかしい思い出が蘇った。私はアタマが悪くて硬い。大学の演習でブルガーコフだったかオレーシャだったかの作品を読んでいて,Как вы себя чувствуете? なる文が出て来た。私はそれを「あなたは自分をどのように感じていらっしゃいますか?」と訳した。鬼の恩師にすかざず「あーたね,そんな日本語が通じると思いますか?」とめっちゃキツく言われた。そう,これは「ご気分はいかがですか」という病人に対するごくごくありふれたセリフなのに,「いかに自分を感じるか」なんて訳すと日常的レアリアがいっぺんに哲学的・倫理的形而上にすっ飛んで行ってしまう(フランス語の la petite mort を「小さな死」と訳すバカと本質的に私は同類だったのである)。私にはこの手の恥ずかしい失敗がいくつもあった。здравый смысл 健全なる知性 — アホ,古い用法でそういう訳もないことはないけど,これはたんに「常識」という意味だ。дьявольская разница 悪魔的相違 — 意味わかんねぇよ,これは「どえらい違い」ってこと。恥ズ。『ロシア重要単語 2200』にはまさに Как вы себя чувствуете? の例文が出ていた。言葉はやはり,アタマでこねくり回すより,まずは「覚える」べきものなのである。
 

最新ロシア重要単語2200
佐藤純一・木島道夫 共編
白水社

私は学生時代に本書の編者・佐藤純一先生の古スラヴ語・教会スラヴ語の講義を受けたことがある。当時は日本語による教会スラヴ語教科書なんてなかったばかりか,ソ連にもよい本がなく,先生はスラヴ文献学の先進国・西ドイツで出版された書籍のプリントを学生に配って講義なされた。先生のロシア語・教会スラヴ語の発音にも凄いと思ったが,ドイツ語の発音も流暢で私はおったまげた。こんな人じゃないとスラヴ文献学には太刀打ちできないのかと溜め息が出たものである。