la petite mort ということばをご存知だろうか。フランス語で petit は「小さい」,mort は「死」。つまり「小さな死」。これを含む仏文について「私はそのとき小さな死に浸っていた」という訳を読んだら,われわれはどう感じるだろうか。なにか哲学的な観照に,高尚な気分に話者が取り憑かれていると思うのではないだろうか。
じつは la petite mort とは,フランス語の俗語で,セックスにおける絶頂感,あるいはその後の虚脱状態の謂いである。日本語の「イク」,「イッちゃった」という俗語とあまり変わりない。日本語も,一線を越えて別の世界へ達する意味で,la petite mort の捉え方と酷似している。
よって,先の小文の訳は「おれはイったあとのあの脱力感を覚えていた」くらいでないと意味不明ではなかろうか。ところが,「イク」を「小さな死」と日本語に訳されることで,もとの意味が雲散霧消するのみならず,たんなる俗事が一気に詩的・哲学的なものに昇華する。フランス現代文学・批評の翻訳は,どうもこの la petite mort 直訳のようなものが多すぎるのではないかと私には思われる。これがあの難解さの一因ではないかと。
ロラン・バルト『エクリチュールの零度』の翻訳(森本和夫・林好雄訳註,ちくま学芸文庫,1999 年)を読みなおして,なにかフランス批評の翻訳には,la petite mort を小さな死と訳すに類するボタンの掛け間違いがあるのではないかと忖度してしまう。それほどに,まったく意味不明なんである。それでいて哲学的な観照と高尚な気分だけはなんとなく察知される。
私は先日,同じ著者による『表徴の帝国』を読み,それなりに感銘を受け,やはりバルトの批評眼は一流だと感じた。それで,いま再び新訳で『零度のエクリチュール』(かつて出ていた邦訳の題はこのように名詞がひっくり返っていたはずである)を読み返せば,学生時代に投げ出したこの高名な書物からなにかを学ぶことが出来るのではないかと期待した。果たして無駄であった。翻訳文を,— 恥ずかしながら — 文字通り一行も理解できなかった。
訳者も普通に読んで理解できないこの書の難解さを知っているらしく,本書の頁分量の半分以上,つまり本文以上の頁数を訳註・解説に割いて大童である(よって,フランス語で読んでもどうも晦渋な書物らしいと知れる)。しかし,その訳註を読んでも,本文がなにを言わんとしているのか,またなぜそんな註が可能なのか,ひいてはその註自体すら本文と同様,不親切な符牒で説明してくれていて,まったくもってわからない(人名解説は別として)。
このわからなさの原因は,私の頭が悪いのか,翻訳が la petite mort 直訳ゆえなのか,ロラン・バルト自身の天邪鬼ぶりゆえなのか。判断できない。おそらく第一の要因が強いのだろう。でも第二の要因も相当疑わしいのである。そもそも「翻訳」なのだから,少なくとも日本語として意味が通るようにしていただけないものでしょうか。
こんな徹頭徹尾理解できない文章を書くことができるとは素晴らしい。称賛に値する(私は皮肉抜きで正直に言っているのだ)。insomnia 眠れない夜に格好の道具になる。でも,この「翻訳」でバルトを理解した人がいるのだろうか。
実際,同時代の著作家たちに共通の規則や慣習の集合体である《言語体(ラング)》や,著作家の身体や過去の個人的神話から生じる《文体(スティル)》とは独立した,文学の第三の形式的現実としての《エクリチュール》は,その後のバルトによって放棄されたかのようにみえる。
これは,バルトではなく,翻訳者による解説の一部だ。これまた,訳文と変わらず,下線部分のような,わけのわからない符牒に満ちた日本語文を,なんの前置きなくして気軽に書いてくれるフランス文学者が(この解説を書いた本書の訳者のみならず)ゴマンといる。こういう,要するに隠語だらけの文章を書くことのできる状態を「理解」だというのだろうか。
本書はおそらく,文学論ではなく,聖書やコーランの神妙な説話や仏教経典にも似た壮大なメタファーなのである。事実の観察,分析,その総合としての「論」ではなく,いきなり「悟り」が比喩をもって繰り広げられる「神話」である。威厳と象徴に満ちた語り口に対して,たくさんの研究者がまさに脚注だらけの本翻訳書のように,— 親切にも — 膨大な注釈を行う活動そのものに意味があるような。そしてまた,その注釈そのものが他ならぬメタファーになっているとはどういうことか。まるで,聖典の傍系としての「啓示文学」である。
こういう「論」にわれわれパンピーがこれら研究者と同じように付き合うのはやめたほうがよさそうである。なぜなら,どうもこれを「理解」しても,先に引用した日本のフランス文学者のようなわけのわからない啓示的比喩に満ちた文章を書くことにしか資しないようであるからだ。
本書のアマゾンの評価は最高点の五つ星である。その評もぜひ読んでみてください。比喩の素晴らしさを同じ比喩でもって称賛しているに過ぎない。比喩の連鎖は「論」ではない。
海外アニメのファンは,日本アニメ・オタクたちの使う「ツンデレ」,「ヤオイ」,「ショタ」などの隠語について,自国語のことばで咀嚼した訳語を使わず(だから「定義されない」状態のまま),日本語のままで流通させている。でもそれは,アニメ文化を彼らが自らの文化に受容し消化したというよりもむしろ,アニメ・オタク・ジャポネーを真似してその雰囲気を楽しんでいるに過ぎない。
本書において「アンガジェする」だの,「シニャレする」だの,「シニフィエする」だの,フランス語がそのまま翻訳文に紛れ込んでいる姿は,この海外アニメ・オタクたちの楽しみ方とまさに同じである。日本語訳としてのあまりの支離滅裂さに,どうも雰囲気を楽しんでいるとしか私には「理解」しようがない。
ま,確かに,日本語として「理解」せずともその雰囲気を「真似」することはできそうである。
三島由紀夫の『金閣寺』は,かれの豊饒なる空虚としてのエクリチュールをもって — それはほかでもない,文化という残酷な標章 の一系列にも近似した金色の楼閣を,戦後覆されてしまった『語られる言語 』に偏在する虚無 として描くことによって —,あたかも文学の小さな死 を宣告したともいえよう。
これはいま私がテキトーに「真似」してみせただけである。何の意味もない。まあよい。文学者には暇人が多いものである。でも,la petite mort がただの「イク」なのに「小さな死」の形而上学的ニュアンスに読み替えられているとしたら,こんな滑稽はない。
もちろん,私にはフランス語原典とこの翻訳とを見比べて評価する能力がない。上記は私の頭の悪さを露呈しているに過ぎないかも知れない。わけのわからぬ翻訳を読んでいて,その内容とはまったく関係のない la petite mort がつい頭をよぎってしまった。まともな — つまり,翻訳文が日本語であることをまず第一に考える — フランス文学翻訳者の意見をぜひ聴いてみたい。
上記は『エクリチュールの零度』そのものについては何も書いていないので付記しておく。
本書は,書かれたものにある言語要素に対して,書き手個人や社会集団,歴史等に特有の価値観・情念・概念がどのように担わされているのか,文学・政治評論等におけるそうした諸相の姿を「エクリチュールの度数」で喩えたものである。「エクリチュール」という概念を広めた重要な書物のひとつである。そのおかげで — もちろん,符牒だらけの翻訳にも幻惑されて —,流行に敏感なわが国のインテリ(フランス文学思想ヲタ)は,勝手気ままにまさしくお飾りで「エクリチュール」という語を使うようになってしまっている。
零度のエクリチュールというものが個人,社会集団,歴史の価値観・感じ方から絶対的に自由な理想的状態と仮定するならば,じゃあ,10 度の,150 度の,等々のエクリチュールとは何か,それはどうしてそう「測れるのか」についての定式を,ロラン・バルトはどうして示さないのだろうか?「抒情詩は 1000 〜 2000 度の範囲にある」— 例えば,こういうような理論(もちろんこのような一次スカラー的な単純なものにはなりそうもないのだけど)を導き出そうとしないで,「零度の」とはいったいどういうことなのだろうか。
科学的表現がそれこそただの「比喩」で終わってしまっている。
私は,まさにこうしたロラン・バルトの方法論にいたく不満であって,それゆえに本書は「科学的」たろうとして果たせなかった,文学理論の敗北の書である,と考えている。ま,おフランスの文学に無条件にひれ伏してしまう日本の読書家のなかで,私みたいなのは圧倒的少数派なんだろうけど。