土屋英明『中国艶本大全』

文藝春秋社・文春新書から出ている土屋英明著『中国艶本大全』を読了。この手の本を読んでいると,妻や娘から「ほんとお父さん,エッチなんだから。エロオヤジ」と腐される。私は「うるせぇ」の一言で終わらせる。こんな面白い本は,「読んだり観たりして楽しむことと,実際に行わないと気が済まないこととの間には,千里の懸隔がある」ということを理解できる人だけが読めばよいのである。

本書は漢から宋,明の時代にかけての中国の艶情小説の概観,その代表的作品の案内である。数ある版を子細に比較検討し,岩波文庫の『金瓶梅』などは性交場面の一部が削除ないし未訳出であることなど,日本での出版・翻訳事情などをも解説している。なにより私の感心したのは,著者が理屈抜きでこのジャンルを愛し,野にありながら — 大学などというお上品な制約にとらわれず — 丹念に古書を漁り,ヴァリアントを比較し,典故を確認し,表現のレアリア (Realia) に迫ろうとする態度である。

しばらく前に,山口椿著『ロベルトは今夜』所収の光野桃による解説文を読んで,「女の自由な魂の発露」だの,「頽廃と倒錯,異端のサディズム文学!」だの,「アンダーグラウンド」だのといった根拠薄弱かつ陳腐なレッテルを貼って「正当化」(頽廃,倒錯,異端,アンダーグラウンドは,日本のインテリの間では − その無邪気さに笑ってしまうのだが − 褒め言葉だ)せずにはエロを楽しめない,そういう底の浅いナイーブな教条主義に,私は吐き気を催した(ここに読後メモを残してある)。土屋は,そんな西欧かぶれのお上品な御仁たちとは,まったく無縁。エロをエロとして愛する姿勢こそが本物の文藝愛好家の証であると私には思われるんである。

エロ小説が禁書扱いになった中国の伝統がわかりやすく整理されている。それゆえに散逸の憂き目をみた作品の数は測り知れないだろうということもわかる。弾圧が激しかっただけにエロの劇しさは日本のそれを優に凌駕しているという印象があった。さすが中国である。日本は伝統的にエロに寛容であったことが幸いして,日本に写本が伝えられ散逸を免れた作品は『遊仙窟』に留まらない。エロに関し,内容の劇しさでは中国に,蓄積の豊かさと大らかさでは日本に軍配が上がる,と認識させられた。それにしても本書を読むと,この分野でも日本は中国の偉大な伝統に負うところ大だったことがよくわかり,私は中国古典文学に対する尊敬をしみじみと新たにするのであった。

政府による厳しい弾圧のあるところ,表現において典故を踏むなどの奥ゆかしい仄めかしの文学技法が発達する。それは帝政時代・ソ連時代のロシア文学でも大いに適用できるあり方である。研究者は,表現がいかなる現実を踏まえその目指すところは何だったのか,すなわち表現のレアリアを,膨大な文献の渉猟,生活様式・歴史背景の理解を通して明らかにしようとする。土屋もそういう文学背景への理解を踏まえ,「判じ読み」の必要性を説いている。

その読みはたいへん興味深い。『遊仙窟』の唯一の「濡れ場」について,岩波文庫・今村与志雄訳と,本書の土屋訳とを比べてみよう。その著しい違いに驚かされる。

口を吸うたびに快感がはしり,抱きしめるたびにうれしさがこみあげた。鼻がつんとし痺れ,胸がつまった。しばらくして,眼がちらつき,耳がほてり,血管がふくらみ,筋がゆるんだ。
張文成『遊仙窟』今村与志雄訳,岩波文庫,1990 年,p. 90。
[ 髀子(ほと=女陰)に:私註 ] ぐっと食い締められ,なんともいえない心地がしたので,押しつけて奥まで入れた。先がむずむずしてきた。まつわりついてくる。あっと言う間に鈴口がしびれて雁首が熱くなり,筋張ったとたんにいってしまった。
土屋英明『中国艶本大全』文春新書,2005 年,p. 79。

まったくレアリアの理解が違う。今村による意味不明の訳文も味がないわけではない。「うれしさがこみあげた」なんてまるで小学生の作文じみたところが,却って陰湿な具体を想像させるからだ。しかし,実際の情景はおそらく土屋の訳文のほうが的を得ているといえよう。「鼻」はペニスの先のことだというのが土屋の「判じ読み」なのだが,確かにそう解釈しないと「血管がふくらみ,筋がゆる」むことの何たるかというレアリアが活きて来ないことがはっきりとわかる。

岩波文庫に今村が付した長大な解説は作品を理解するという意味においてはいったい何だったのだろうかと思われるくらい,土屋の解説・訳文には「目からウロコが落ちた」気にさせられる。見えないものを見えるようにしてくれるわけだ。とはいえ,張文成の仄めかしの奥ゆかしさも訳文で表すことができればよいのに,という気持ちも私にはある。こうも明け透けに訳しちゃあ,やっぱゲビてるよなと。

本書は,『遊仙窟』のほか,『如意君伝』,『痴婆子伝』,『金瓶梅』,『僧尼孽海(そうにげっかい)』,『春夢瑣言』について紹介している。いずれも,そのエロ表現の特徴や儒教・老荘思想・古典文学伝統との関係,日本文学との趣味の違いについて蒙を啓いてくれ,作品の触りの訳文で滅法楽しませてくれる。本書を読めば,エロ小説も現代日本の官能小説よりも中国の古典のほうが,毒がありかつイヤらしさも凄いと感ずることを,私は請け合う。

ま,そういう次第で,ある人には下品な俗流文学解説本だと映るんだろうけど,私は本書を支持します。土屋英明は中国のエロ文学の訳書,房中術に関する著書をいくつも物している。私もちょっとハマりそうである。

Post Scriptum.

本書を読んだあと,晩ご飯のときに子供たちに教えてやった。「中国語で『チンポ』のことを『鶏巴=チーパ』というらしいよ。なんか日本語と似てるよね。女の子が恋人を『バカねん』と軽く罵るときも『チーパ』って言うんだって。だから,中国人は『千葉県』のことを耳にするとクスクス笑うらしいよ」。受けた。おかげで,私にとって LaTeX の TIPA(国際発声記号パッケージ)もただごとではなくなってしまった。そうそう,LaTeX だってラテックス・コンドームを連想してしまうんである。