山口椿『ロベルトは今夜』

山口椿という作家をご存知か。エロティスムの画家にして作家。チェロもよくする趣味人である。この『ロベルトは今夜』は,祥伝社文庫が『山口椿エロティシズム・コレクション』の一冊として刊行したものである。著者自身によるカバー画と挿絵で彩られ,なおかつ半透明の硼酸紙による帯にくるまれ,文庫本としてはなかなか洒落ている。

本書は,連作短編『罌粟のように Les Coquelicots』と二つの戯曲『薔薇と夜鶯 Rosent et Merleuse』,『ロベルトは今夜 Roberte ce Soir』から成る。これらは,西欧の淫靡なエロスの伝統に一度は嵌ったことのある者にとっては,「ああ,これこれ!」式の紋切型であるがゆえにこそ,堪らない蠱惑を湛えた官能文学なのである。要するに「エロ文学」。そういう意味では,大衆文学の一大ジャンル・官能小説と変わりがない。

ここで直ちに,大衆官能小説と山口椿作品との違いは何か,との疑問が起こる。というのも,前者が,ほぼスケベ・オヤジで占められる読者たちが暇潰しに楽しむ,機能的にはエロ・グラビア週刊誌,アダルトビデオとさほど変わらない「興奮道具」であるのに対し,後者は,まぎれもなく「趣味と教養ある大人」のための頽廃美を装い,どうも知的で若い女性(そうそう,女子大学生など)が堂々と読むべき気品と風格とを備えている — らしいからである。現に,この文庫本の解説を書いているのはファッション・エッセイストの光野桃である。このことこそ,若い「ファッショナブルな」女性の趣味を代表している証左といってよい。なぜ同じ「エロ」で,こんなことが起きるのか。

文庫の帯文には,光野桃の『エレ・マニ日記』からの一文が引かれている。

時代物から精神病理学,デカダンの香り高い幻想潭まで,山口椿の知識と趣味は広大な地平を持っているのである。不倫小説が流行し,貧しい官能と,肉体のない男女の絡みが横行しているこの世紀末,素人臭い性の世界にはもう,うんざりだと思う。
山口椿『ロベルトは今夜』祥伝社文庫,1999 年,光野桃による帯文より。

「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」でしかない不倫小説=大衆官能小説がコキ下ろされているわけである。でも,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」とはいったいどういうことか。「肉体のない」,つまりリアリティに欠けることを「貧しい」と言いたいのか。この帯文からだけでは判断しようがなく,光野桃『エレ・マニ日記』そのものを読まないといけないのだろうけれど,どうもきちんとした定義ができるとは思われない曖昧な表現である。要するに,山口椿作品の「知識と趣味」こそが現実味の欠如した大衆官能小説との決定的な違いだ,というのが光野の意見だと読みとってよいだろう。ここがスケベ・オヤジと知的な若い女性との読者趣味を截然と分断する,というわけだ。

そう,「知識と趣味」。欧州の「香り高い」頽廃趣味と文学的・精神病理学的ハイブロウは,確かに山口椿作品に横溢している。要するに,光野はこれをもってこそ山口椿作品が「高尚なエロティスム」であり,大衆官能小説の下劣な「素人臭い性の世界」(*) とは違う,とでも言いたいのだろう。しかしながら,山口椿作品において言及される,それを象徴する属性 — シャルル・ボードレール,オスカー・ワイルド,ポール・クロソウスキー,ピエール・ド・マンディアルグ,アンリ・バルビュス,マルキ・ド・サド,ジークムント・フロイトなどなどの名前は,西欧のエロティック文学の聖化されたオーソリティであり,糞尿とサディズムに充ちたポルノグラフィの嗜好も,ジョルジュ・バタイユをはじめとする「悪の文学」の論客によって理論的筋道を付けられて久しい,いまや安心できる「伝統」であり,新機軸が纏う危険性はどこにもない。

(*) 光野桃の謂う「素人臭い性の世界」って,具体的に何が言いたいのか,さっぱりわからない。古今のポルノグラフィを読んで来た読書人ならば,このコトバで一般女性の不倫話のことを話題にしているのかと勘違いするはずである。「性の世界」の「素人」とは昔から「地女」といっていわゆる一般女性を指すからだ。当然,「玄人」は花魁,娼婦,藝者,女給等々の性的サービスのプロ,床入りの達人のことだ。光野桃は,この手の当たり前のことすら知らないで,— 要するに,文学においても,風俗においても,「性の世界」を知りもせずに — お上品なエロ文学論を語っている。それがこういうコトバですぐにわかってしまうのである。
そして,あの性臭が,濃い霧のように,ロベルトの下半身を掩ってくる。
 それは,いささか忌まわしげな匂いだった。[ ... ]
 その匂いは,とても高価な香水,たとえばゲランや,コティのあるものによく似ている。
 それは,注意深く嗅いでみると,微かに糞便の匂いが入りまじったものだ……
同書『ロベルトは今夜』,pp. 184-5.

糞便と香水という「性臭」の陰湿な取り合わせは,現実のあの匂いを現代の知性によって精密化した表現であるというよりもむしろ,バタイユによって定式化され,そのことによって解毒された,十九世紀末以来の頽廃文学の伝統的「紋切型」なのである。こうして,現代的リアリティから遠いという点では,山口椿作品のエロスは,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」たる大衆官能小説と本質的にはあまり変わらない。むしろ,「肉体のない」性質は,海外文学伝統によって聖化されている分,山口椿作品のほうが遥かに強い。

伝統によって権威付けられた頽廃なんて,「頽廃」だろうか? 名辞矛盾というものではなかろうか? 光野さん,西欧の「高尚」な伝統の雰囲気に騙されていませんか? 権威付けられた頽廃美にただ「感心」しているだけではありませんか? 日本の女性は,かつて,神代辰巳監督の日活ロマンポルノには眉を顰めながら,一方で,おフランス製 un cinéma pornographique,『エマニュエル夫人』の上映には映画館に列をなして恥じなかった,そういう不思議な習性がある。イヤらしさの本質はどっちも同じだというのである。

山口椿と大衆官能小説作家の「エロ」そのものには何の違いもない。型があるという意味で本質は同じである。光野のいわゆる「知識と趣味」の味付けによって — 西洋起源であることが明らかなゆえに! — 山口椿作品がハイブロウにみえるだけである。山口椿作品の美点は,じつはその「権威付けられた頽廃」,すなわち西欧的エロスの「紋切型」が,やはり堪らない魅力を失なっていないということにこそあるのだ。ただのスケベが日本人でなく西欧人に関係しているならサマになるという美学が,西欧崇拝の伝統化した日本人にはある。光野の論理はまさにその美学に幻惑されているに過ぎないのである。

ところが,山口椿はその美学を意図的に操っているからこそ,一種独特の読ませる作家になっているのである。作品中にフロイトほか,先に挙げたオーソリティの名前が不必要に言及されていること — これがパロディー的感性による構成上の意図的寄り道であることは明らかである。つまり,その西欧文学ぶりの本質はパロディーにあるわけだ。

日本人が西洋の美少女の透き通るような白い肌(「白い裸身の仄青い翳だけが,記憶のなかでひりひりする」— 同書,p. 98),碧い瞳(「人間という暖かな生きものに,鉱物質のブルーがあることに私は感動した」— 同書,p. 83),ブロンドの髪(「琥珀の玉座に坐っている人魚の髪」— 同書,p. 151)に憧れること。括弧のなかに入れたこれら魅力ある表現は「知識」とは無関係である。それでいいではないか。なのにそれを,光野ばりにジェンダー/フェミニスト文学評論風に — 光野は山口椿の小説を「美しい叔母」に喩え,「女の自由な魂」の発露だと称賛している(同書,「解説」,p. 241)— 正当化しても,山口椿文学の備えた堪らないイヤらしさは説明できません。日本のインテリは「高尚なエロティスム」を云々するのになぜか急がないではおれない。どうしてエロをエロとして肯定できないんでしょうかね。

山口椿と大衆官能小説作家とは,その描写において,前者のまぎれもない自分自身の生の視線への執着と,後者の道具立ての職人的周到という違いがある。つまり,大衆官能小説のエロ描写の視線は,作家個人の直截的ビジョンというよりもむしろ,ジャンルが強制する職人的/プロフェショナルなフィルターを一枚噛ませている。わかり易くいえば,「作法」がある。だからといって,この相違は,優れた大衆官能小説作家の描写の腕前を否定するものでは決してない。大衆官能小説作家の書法は職人芸であり,「貧しい官能と,肉体のない男女の絡み」として棄て去るには — ヘンタイとエロスを区別できる者にとって —,惜しい限りである。山口椿はひとえにその「作法」とは無縁で,西欧エロ文学の紋切型レミニサンス(読書記憶による有形・無形の影響)と個人の視線が分ち難く融合して,それにとって代わっている。そこが山口椿エロティスム文学の個性だと私は思う。

植物のように伸びてゆく骨格に,ついてゆかれない肉はうすい。骨格と肉とのせめぎあいを,少女は生きている。
同書『罌粟のように』,p. 62.
ベルリンは怪しい魅惑を秘めた街だ。ゲルマンというものが,表層の整正とは裏腹に,頽れたデカダンスをかくしていることを,私はデューラーや,マレーネ・ディートリッヒから嗅いでいた。いや,そうした気障ったらしい謂いかたを捨てるなら,この国のいたるところに見られる『黄金と群青』は,いったいなんだろう。現世の欲望の象徴でもある『銭』と,はてしなく昏い『絶望』を,並べなければ納得のゆかないひとびと。
同書『罌粟のように』,p. 115.

こういうミクロとマクロの — 接視とロングショットといったほうがよいのか — 確かな視線に支えられた,触覚のある描写が,彼の「権威付けられたエロ」に奥行きを与え,学生時代にバタイユや澁澤龍彦を読み過ぎた元 Romantiker の,ただのスケベ・オヤジにとってこそ,懐かしく堪らない魅力になっているのである。大衆官能小説のジャンル的作法との差異がリアリティ(の錯覚)を生み出す。それは「知識と趣味」とは何の関係もない。「通」とはそういう魅力を,余計な,「女の自由な魂」などといった根拠のない正当化なくして,冷静に — 先行する文学との差異を認知しつつ — 享受できる読者のことを言うのである。

そして,山口椿はそのような読みに応える「通」の作家なのである。山口椿は「下品」極まりない書き方を決して厭わないし,「エロ」そのものとしては大衆官能小説と比べ,どこにも「高尚」の優越はない。「あそこ」のことを山口椿は「ラビア」(つまりラテン語 labia — labium 「唇」の複数形)と書き,大衆官能小説作家は「ワレメ」,「おまXこ」などと書く(下品ですみません),その違いのようなものである。どちらも「人畜無害」という意味では同じである。

それでも西欧の伝統的エロのレッテルは便利ではある。それを「藝術的」と茶化しても皮肉に受け取られないからだ。私が本書を読んでいるとき,娘が横から「何読んでるの?」と聞いた。「ヨーロッパの香り高い,藝術的なエロ小説だよ。エッチな挿絵も入ってる。見せないけど」と私。「だから,おまいらには読ませねぇ。大人のお父さんだけの十八禁じゃ」—「ふうん,でも『十八禁』の本って聞いたことないよ」—「なるほど」。「あ,これ読んでしまった。次,何読もうかな」と私が言うと,娘は「それに毛の生えたようなやつ読めばいいんじゃないの?」。「毛の生えた?」—「そのたぐいの本ってことよ」。陰毛を偏愛するエロ小説のススメかと私はどきりとした。それはともかく,文学は想像力であって,確かに『十八禁』ってのも笑ってしまうわいな。子供たちがこっそり読んでも別に構わないか,とヘンに納得したのでございます。

それにしても。「頽廃と倒錯,異端のサディズム文学!」との本書の帯。「戦後の拝金主義と画一主義。それらに背を向け,アンダーグラウンドの世界で表現活動を続けることこそ,彼 [ 山口椿: 私註 ] の生を賭けての復讐だったのではないだろうか」(同書,「解説」,p. 240)との光野の言。日本人(とりわけインテリ)は権威付けられた安全な「異端」・「アンダーグラウンド」がなぜこうも大好きなんだろうか,と私はほとほと呆れる。それこそまさに「画一主義」。そんな「アンダーグラウンド」ってあるか? アンダーグラウンドってのは,警察に捕まるということである。ノリピーみたいに世間様から後ろ指を指されるということである。「異端」とはそれに関ると火炙りにされるような何かである。名辞矛盾というのではなかろうか? 文学を甘く見てませんか!