朱川湊人『かたみ歌』

妻とは読書の趣味がまるで合わない。私は江戸川乱歩風大正ロマン,泉鏡花風幻想ロマン,開高健風ピカレスクなど,どちらかというとエロ・グロ・ナンセンスへの志向のある文学が大好きなのだが,妻はいたって正統派であり,夏目漱石,大江健三郎,村上春樹などをよく読んでいる。古典文学・歌謡,俳句や短歌の造詣は,私なぞは仰ぎ見るばかりである。よって,お互いがどんな本を買うのか,お互いまったく気にせず本屋に行く。まず同じ本を買うことがない。それでもときおり意見が合うことがある。朱川湊人『かたみ歌』(新潮文庫,2008 年)はそんな一冊であった。本書は,先日テレビで観た『世にも奇妙な物語』の一作・掘北真希主演ドラマの原作を,妻が目敏くチェックして,買って来たものである。「本当に面白いからぜひ読んでみて」と妻。その通りであった。私は寡聞にして作者・朱川湊人が直木賞作家だとは知らなかった。

この小説は連作短編集というべきものである。昭和三十年・四十年代の東京下町の『アカシア商店街』という商店街を舞台にした,ホラー仕立ての人間ドラマである。私も妻も,作者とまったく同年代であり,作品に登場する世相を反映した事件や歌謡曲のどれをも,説明抜きで同じ共感をもって受け容れることができるのである。そういう実世界の懐かしい固有名詞が一種独特のファンタジーの記号になっていて,「わかる人にはわかる」世界を形成している。ま,ノスタルジーというわけである。

専門店の集合としてのかつての商店街に特有の,生活のために物を買い求めることと,店の主人・店員との人間関係とが分ち難く結びついていた,そういう旧き良きコミュニティを,朱川は「そうそう,あったあった」と感じさせるまでリアルに再現した。それだけではなく,人間の悲しい性がもとで起こる怪異の恐ろしさ,あるいは切なさを,さらに大きな他者への優しさ・思いやりで包み込むような物語性こそが,最近めったに味わえなくなった痛切な感動をもたらすのである。通勤電車のなかで『おんなごころ』,『枯葉の天使』を読みながら,私は不覚にも泣いてしまった。この作品の美点はノスタルジーではないということなのだ。

私はこの作品のノスタルジーをもっともよく共有できる世代だと思う。けれども,だからといって,この昭和三十年・四十年代を単純に美化したいとは思わない。本書の解説に「私たちが便利さとひき換えに失ったものを,本書は改めて思い出させてくれる」とある。その通りだと思うのだけど,これが昭和三十年・四十年代という時代に暮らしていた人々の社会性ゆえだとはまったく思われないのである。昭和を懐かしく思い出すのは人情だけど,一方でいまと比べて酷い時代であったことも私は否定できないのである。

私は大阪市住吉区に生まれ,松原市で育った。この作品で出て来る商店街のような懐かしい風景も記憶のなかに確かにあるけれども,いまこの現代の日本のほうがよい時代なんだとつくづく思うことがある。大阪は朝鮮人差別・部落差別が酷かった。友人の家に遊びに行くと,そこの老婆などから「あんたどこの子ぉや?」とまず聞かれる。「高見ですけど」—「そか。ほんならえぇわ」。その答えによっては二度と家に入れてもらえなくなるのである。これは,家の子供の遊び相手が部落出身者ではないことをまず確認しているんである。友人の親から「あそこの子ぉと遊んだらあかんでぇ」なんて何度言われたことか。いまはこのような露骨な差別感情に出会うことはなくなった。もちろん,ネットでは陰湿なひねくれ自己満足の輩が匿名で朝鮮人差別発言を書き込んだり,有名人の在日朝鮮人のリストなどをサイトに掲載したりしているのをときおり目にすることがある。それ自体赦せない行為であって,差別が根絶されたわけではない。けれども,社会一般の common sense としては差別が明確に否定されるようになり,その考え方はかなり浸透していると思われる。こういう点ひとつとっても,いまの日本のほうがよいと私は確信している。『かたみ歌』には宮本輝の『夢見通りの人々』の味わいがある。しかし宮本の在日朝鮮人の描写に伺われるような社会の不条理に対する現実的視線は,この朱川作品には認められなかった。もちろんそれはそれで,いささかも『かたみ歌』の美点を貶めるものではないと思う。

「その頃は今では考えられないほど,世界に子供が溢れていた」と本書にある(p. 55)。そうだ。私などの中学校は一学年 10 クラスもあった。当時,子供は国の大切な未来の宝なんて誰もしみじみとは考えなかったのではないか。「子供がいて当然」だったのだ。ガキどもお前らうるさい! もっと静かに遊ばんかい!— そんな近所の偏屈オヤジとのバトルは日常茶飯だった。ガキが元気だったのだ。いま現在の不幸があるとしたら,少子化のために子供が大切になったがゆえに,きちんと育つかどうかに怯えてさらに子供を生まなくなった悪循環かと考えてしまった。