ゆとり世代

今朝,9 月 17 日朝日新聞朝刊の『天声人語』で,友達ができないという理由で,せっかく入った大学を中退する学生が増えている,との文章を読んだ。「学生たちは,友達がいない寂しさより,いない恥ずかしさに堪えられないのだという。[ ... ] 周囲の目が気になって学食で一人で食べられない。あげくにトイレで食べる者もいるというから驚かされる」。

これが真実だとすると,要するに,「群れたい」心理なんだと私は思う。この前ちょっと冗談めかして書いた「AKB 症候群」。このあたりの若者のメンタリティは,私のような,不潔で貧しい時代に,自然発生的に遊び仲間ができた環境に育った中年オヤジには,理解を越えている。「婚活」なんてコトバも定着していて,義務教育を終えて高校,大学,就職のために専心的に準備するだけでなく,結婚すらある道筋で準備しようとするブームは,誰もが同じ道筋を行くことへの指向が徹底しているようで,集団主義的等質性の恐ろしい鋳型に嵌める世の中を意味しているのか。わからない。このコラムで述べられているような「驚かされる」行動様式が,最近の学生のある典型の確かな素描なのかどうか,私は疑問である。

と考えながら出社したら,課長回覧で『FujiSankei Bussiness i』がごそっと自席の未決裁書類トレイに積まれてあった。そのうちの 8.16 号に獨協大学・大坪正則氏によるコラム「ゆとり世代の就職」が掲載されていた。ゆとり世代というのは,2003 年度改訂学習指導要領での教育(「ゆとり教育」)を受けた世代の謂いである。来年 4 月,1987 年生まれのいわゆる「ゆとり第一世代」が大学新卒社員として社会に出る(高卒の人たちはすでに社会の第一線にあるわけだけど)。大坪氏は大学教員としての経験から,ゆとり世代の学生は,少子化に伴う「甘やかし」と相俟って,物事に独自の興味・関心をもって取り組むという姿勢が欠如していて,困難に対して諦めが早いと指摘していた。要するに,会社側からみていちばん採用したくない弱々しいヤワなタイプが多いと。そこへもって厳しい就職難の時代が再来したいま大学教員はどうすべきなのか,と大坪氏は慨嘆していた。ゆとり教育のツケがすべて大学教育に回されているとの愚痴もあった(*)。大坪氏は,企業はこんな学生を採用せず,今後の採用計画において中途採用に本腰を入れはじめるだろうと予測していた。

(*) 私に言わせると,大学の教員が「ゆとり教育のツケがすべて大学教育に回されている」なんて抜かすのは,まったく笑わせてくれる。というのも,勉強をまったくしない学生が普通であるのは,昔からの日本の大学の「甘やかし」体質にこそその理由があるからだ。「甘やかされた」学生のケツを少しくらい拭かさせられたって当然だ。

これを読み,私の頭で,朝日新聞の書く友達と群れたい人々とゆとり世代とが,「最近の学生」というキーでジョインされてしまった。また,最近流行の「草食男子」的優しさ・脆弱さとも容易に結びついた。群れをなすのは草食動物の生態でもある。こうした学生が来年社会人として世の中に出なければならなくなる。「おい,大丈夫か?」と私も何となく不安になってしまう。

「ゆとり教育」はどうやら世の中一般にとっても負のイメージしかないようである。私のみる限り,ネットで「ゆとり世代」に関係付けられる発言は,百のうち百までが否定的罵倒である。私のこのバカ・ブログ記事へのコメント欄において,旧字・旧仮名遣いを信奉するある人が新字・新仮名遣いのことを軽蔑の意味を籠めて「ゆとり教育のようなもの,円周率3のようなもの」と — 何気なしに — 書いていたのには本当に驚いた。なんか問題の所在が違わないか? 「ゆとり世代」は,これと同じような単純極まりない短絡的な蔑視に晒されているのではないか? 最近,この手の「ゆとり教育」批判をもって世代断絶を煽る情報が,きちんと吟味されないままにあまりに蔓延し過ぎではないか,と私は思う。じつは「ゆとり教育」ではなくて,逆にこういう短絡的思考様式そのものこそが社会の問題なのじゃなかろうかと。そもそも「ゆとり教育」は学習指導要領の範囲・内容を少々狭め・易しくしたに過ぎず,その程度でかかるまでのジェネレーション・ギャップが生じるとはとても考えられないのだから。それで十把一絡に叩かれているとすれば,あまりに「ゆとり世代」が可哀相ではないか。

ところで,同日の朝日新聞朝刊に,『「ホタル族」耐えられない』という生活コラムがあった。高層マンションに住む大学教員女性(60)が,マンションの隣や下の階の住人によるベランダでの喫煙で受動喫煙に悩んでいるという話であった。「女性は病気の悪化が心配でならない」。朝日は集合住宅敷地内をすべて禁煙にする法律(米国に実施例がある)などを検討すべきというような主旨を述べていた。健康増進法について私はとやかく言う資格はない。受動喫煙の害悪も認識している。でもねぇ。ちょっと神経質過ぎやしないだろうか。「高層マンション」,しかも「隣のベランダ」ですよ。下の階で火事が起こるのを心配したほうがよくないか? また,車の排気ガス — たばこの副流煙と比べ物にならないくらい害毒を有する排気ガス — は何とも思わないのだろうか? 車に乗るから慣れちゃったってか? 「マンションは気に入っているのに,これから一生,隣人の煙に悩まされるのかと思うとぞっとします」(強調は私)。健康追求もここまで来ると,私は背筋に冷たいものを感じてしまう。高層マンションの隣のベランダからかすかに漂って来る煙草の煙が人の一生を蝕む忌まわしいものとして新聞の記事になっていることに。もっと悲惨な居住環境で呻いている人がいるというのに,それよりも優先すべき事項であるかのように。

私が言いたいのは,この女性大学教員が間違ったことを言っている,というのではない。彼女の潔癖な心情は,私のような下層の薄汚い種類の人間にとって「ゆとり世代」以上に理解不能であるということなのである。最近の若者よりも 50 代,60 代の世代(60 代団塊世代はとくに私の理解不能度が高い)にこそ首を傾げさせられることのほうが多い,ということなのである。そして,どうやら彼らの「健全な」考え方こそが — 日本を支配している世代である以上 —「世間の常識」であるということ(偽善的朝日新聞が囃し立てているわけだ)への違和感が,年々堪え難くなって来ているのだ。それはなぜなんだろうか。その違和感について筋道を立ててもっと具体的に考察しないといけないのだけれども,どうやら若者の意気地を隠然と喪失させているのも,50 代,60 代の世代の自信満々の潔癖性ではないか,と感じている自分を否定できない。

ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』に,こんなくだりがある。ショスタコーヴィチは西側の洗練されたある女性ジャーナリストのインタビューを受けた。彼女は,表現の自由の問題や体制と芸術活動との問題など,ソ連の芸術家としてのショスタコーヴィチにとって答えにくい — なぜなら,自由な芸術活動を主張し体制を批判するようなソ連の芸術家は,つねに彼らを監視している秘密警察に捕らえられ,収容所に送られてしまうからだ — デリケートな質問を,ごく当然の市民社会的良識に基づくものであるかのように,自信満々に,作曲家に投げて寄越す。作曲家は苦りきった心のうちを面に出さず,適当にあしらう。ふとインタビューの部屋に一匹の蠅が飛んでいるのに彼は気付く。ま,いつもの光景だ。この広い世界に蠅だって生きる権利はある。ところが,この女性ジャーナリストは,その蠅が衣服に止ったのに気付くやいなや,インタビューはそっちのけで,いきなり「ハエ! ハエ!」と喚きたて,騒ぎはじめる。作曲家は,かくも高邁な思想につき動かされているらしい目の前の西側ジャーナリストが,蠅ごときで戦々恐々とするのを,なかば絶望とともにせせら笑ってみている。

論理的にうまく書くことができないが,いまの日本の 50 代,60 代に対する私の違和感は,ショスタコーヴィチのまさにこの西側ジャーナリストに対する虚無感に似ている。今朝の朝日新聞に登場する潔癖大学教員から「ハエ! ハエ!」と言われているようで,不愉快でしようがないのである。

ショスタコーヴィチの証言 (中公文庫)
ソロモン・ヴォルコフ編
水野忠夫訳
中公文庫