ロープシン『蒼ざめた馬』

1907 年刊のこの有名な書は,二十世紀初頭のロシアのテロリストを描いた日記体小説である。題名は,ヨハネ黙示録に現われる「死」の跨がる蒼い馬から採られている。作者ロープシン,本名ボリス・サヴィンコフは,社会革命党(エス・エル)の一員として数々のテロ活動を指揮した,ほかならぬテロリストであった。要するに,本書はフィクショナルな小説の形態をなしてはいるが,当時のロシア・テロリズムの「現実的な」一端を示すものなのである。

殺人になんの抵抗も良心の呵責も覚えることのないニヒリズム,ツルゲーネフばりの抒情的な自然描写,全編の至る所で言及される聖書の断片,婦人への理由なき愛。作品では,こうした相互関係の希薄にみえる要素が,主人公テロリストの同一視点から語られる。ロシアのテロリズムにおいては詩人であることと政治的殺人者であることとには矛盾はないようである。むしろ,この分裂というか張りつめた関係こそが人間のモラルの真実性を示す,ということなのだろうか。

テロリズムが国家間の「戦争」になった 9.11 以降のいまのこの時代を理解するうえで,本書がどんな意味を持つのか私にはわからない。正直なところ,私には本書は,ドストエフスキイの危険性 — 先に書いたような — がとるであろう現実の姿としか思えない。しかしなんと美しい作品なのだろう。

湿った土のうえに頑丈な樫とポプラが立っている。教会のようにひっそりとしていた。小鳥も鳴かず,小川のせせらぎだけが聞こえる。わたしはその流れをみつめていた。水しぶきがきらめいていた。わたしは水の音に耳をすませる。ふと目をあげると,枝葉が織りなす緑の繻子に包まれて,むこう岸にひとりの女が立っていた。
ロープシン『蒼ざめた馬』川崎浹訳,岩波書店,2006 年,p. 13。
あそこ,監獄では,世界がすばらしく思えることがあり,大気や,灼きつける太陽を欲した。ところが自由の身になってみると,ここでは,ふたたびたいくつにさいなまれる。しかし,ある日の夕方のことである,わたしはひとりで歩いていた。東の空はもう暗くなり,最初の星が輝きはじめていた。山々は菫色の靄におおわれている。ふもとの川からはかすかに夜風が立ちはじめる。つよい草いきれだ。蝉が鳴きたてる。空気はあんずのように濃く,あまい。そしてこの瞬間,わたしはとつぜんさとった。そうだ,わたしは生きている。死は存在しない。
同書,p. 171-2。
彼女の眠りは浅く,すぐ目ざめる。二度目のノックだ。まえよりもしつっこく,音もたかい。彼女はさっと髪をなおして,起きあがる。灯はつけないまま,はだしで右手のピアノわきの大きな机にちかづく。手さぐりで,やはり音も立てず,引き出しから拳銃をとりだす。わたしが贈ったものだ。それから彼女は,あいかわらず闇のなか,手さぐりで服を着る。三度目のノック,これで最後だ。つま先だちで隅の窓ぎわへいく。暗いカーテンをあける。湿って,せまい,たたき石の中庭を見た。星のかわりに,下のほうにうすぐらい街灯が......すでにドアをこわしはじめた。誰かが斧で規則正しく打つ。彼女はドアのほうをむいて,つよい,しなやかな動作で胸に拳銃をおしあてる。はだかの胸に。心臓のちかく,乳首のすぐ下に。彼女は部屋の隅へあおむけに倒れる。拳銃は絨毯のうえに黒ずんで見える。ふたたび暗闇と静寂。
同書,p. 209。

ちょっと長い引用になってしまったが,この冷徹な抒情と生の充溢は,作品の酷薄な倫理を別としても,美しい。二十世紀のノワールな文学的タイプだと私には思われる。趣味人サディストや淫蕩な女どもで溢れた十九世紀文学の紋切型を,爆弾で吹き飛ばしてしまったかのようである。