鷲巣繁男詩集

『定本鷲巣繁男詩集』1976年,国文社刊を再読。

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少年は古代希臘に生まれた。ある日空から隕石が降るのを認め,海濱でその破片を拾ふ。その神祕な手觸りに囚はれ續けて生涯を終へる。彼はビザンティンの正敎司祭に轉生した。隕石を持ち續けてゐた。東羅馬帝國を步き,露西亞帝國を步き,野垂れ死んだ。彼は大正の日本に轉生した。關東大地震で母と弟を亡くしたとき隕石を懷にしまつてゐた。少年はその後,工場勞働者として働き,長じて兵隊となつて中國江南を步き,戰場でこの世の地獄を見た。捕虜として捕らはれた中國の詩人に邂逅し,中國人への友情の證に,軍嚢に祕藏した隕石をそつと見せた…。

これは詩人・鷲巣繁男(1915-1982)を思うとき俺の頭に飛来した物語。彼の古代の息吹に満ちた晦渋な詩集はまるで,この隕石のような秘蹟を秘めている。Даниил Василиский ダニール・ワシリースキーの神秘の書。わが心の中のカテドラル。Ο ΚΑΘΕΔΡΙΟΣ ΝΑΟΣ ΣΤΗ ΨΥΧΗ ΜΟΥ. Стихотворения. ТРЕТЬЯ КНИГА ДАНИИЛА В. 1967-1970。

鷲巣繁男の経歴は日本の多くの文学者とは異なっている。大学のアカデミズムとは無縁で,商業高校を卒業したあと工場で働き,志願して中国大陸での戦争に征き,戦後は北海道で開拓に従事した。そのかたわら古典ギリシア,ビザンティンに思いを馳せ,ギリシア語,ロシア語,教会スラヴ語,ヘブライ語,エトセトラエトセトラのことばと作品を独学で学び,詩人となった。中国大陸での思いを記した漢詩までも書いている。

 邊塞風雲暗 戎衣又是新
 蕭蕭連雨路 默默遠征人
 懷昔抱愁夢 仰天感太玄
 落花春又過 醪酒醉靑春
『定本鷲巣繁男詩集』国文社,1976年,534頁

この五言律詩は,孤平があったり脚韻が一貫していなかったりと若干の瑕疵があるけれども,風雲凛とひろがる風格がある。蕭蕭タリ連雨ノ路,默默タリ遠征ノ人,昔ヲ懷ヒテ愁夢ヲ抱キ,天ヲ仰ギテ太玄ヲ感ズ。これは俺の読み下したところだが,見事な対句である。新たな戦闘のため軍服に袖を通しつつ暗澹たる玄空を眺める述懐だが,中国との戦争を闘いながらも漢詩を詠む日本人のイメージは,俺の究極の詩人像である。これは中国戦線で友人となった中国の詩人にそっと見せた隕石のひとつである。

俺はこの詩集を,大学二年のときに鷲巣繁男の訃報を聞いてから,しばらく探しまわって,会社に入った 1988 年に神保町の古書店でやっと手に入れた。消費税3%上乗せ価格改定シールで穢されていた。本書は日本の書物としては珍しく,目次が巻末にある。これがロシアの本に倣ったものということがわかるのは,俺のようなロシア文学の学徒だけだと思ったものである。

もう鷲巣繁男のような古代に嵌入する聲はいまの日本では聞かれなくなったと思われるにつけ,彼の詩をアポカリプスのような感覚で再読する今日この頃である。