ユーリイ・ロートマンの『エヴゲーニイ・オネーギン』論

書籍やレコードが散らかりまくった書斎の整理をしていたら,大学時代の資料が出て来た。大学図書館から借りたロシア語文献のコピーを印刷屋に簡易製本してもらったものだ。そのなかにユーリイ・ロートマンのプーシキン論のコピーがあった ― Ю. М. Лотман - Роман в стихах Пушкина «Евгений Онегин». Спецкурс. Вводные лекции в изучение текста. Тарту, 1975. ユーリイ・ロートマン『プーシキンの韻文小説「エヴゲーニイ・オネーギン」特別講義 テクスト研究入門』タルトゥー,1975年。タルトゥー大学の文献学学生向けに書かれた教科書的書物だが,『オネーギン』の藝術的作品構造分析の金字塔と俺は考える。

大学卒業論文のテーマをプーシキンの『オネーギン』に決めて文献を漁るなか,北大スラヴ研究所蔵書書架(大学院生以上でないと閲覧出来ないエリアだった)で本書を見つけ,読んで賛嘆した記憶がいまだに忘れられない。

北大が蔵書として所有していたのは,正規の書籍というよりはタイプ原稿を製本したもので,самиздат サミズダート(地下出版)に近い体裁だった。V というローマ数字がロシア語タイプライターにないため,キリル文字の У で代用していたりした。通常印刷なら斜体を用いるであろう強調については,人間が手書きで下線を引いて示してあった。これは,ソヴィエト時代だった当時は官製社会主義リアリズムが文学研究にも見られたわけで,1920 年代のロシア・フォルマリズムに源流をもつロシア構造主義は社会主義体制下ではかなり異分子的な扱いを受けていて,このような形態で拡散した例の多かったことと関係があると思う。現在は 1995 年に出たロートマン論文集にも納められ,きちんとした印刷物で読むことが出来る。このロートマン選集も俺の書架にあるので,学生時代に読んだ古いコピーは積み置きに紛れていた次第である。

1970 年代から西側諸国ではロートマンの名はつとに知れわたるようになり,ロシア構造主義はフランス構造主義とは一線を画した影響力をもつようになっていたかと思う。俺は Structuralism について,哲学的・抽象的なフランス構造主義に毒された 1980 年代日本のニューアカには疑念をもっていたが,ロートマンの本研究書を読んでからというもの,その文献学的実証主義と文藝学的分析手法とに強い影響を受けるようになった。いやはや,ソヴィエト・ロシアのホンモノの知性に触れ,日本人の文学研究というものが外国かぶれの情けない状況にあることを思い知らされたものだった。

本書はプーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』のもつ矛盾の構成原理(相反する描写を意図的に対置させる構成),他者の言葉(引用その他,別の発話者のテクストを挿入することによる意味論的ズレ),視点の問題(描写の立脚点の位相による意味論),作品の意図的文学臭さ(登場人物の担う文学的世界観と現実との対比)を分析し,作品の詩的小説としての構造を明らかにしている。俺にとってまさに目からウロコだった。『オネーギン』はかくもファンタスティックな作品だということを教えられたものである。残念ながら日本語にはいまだかつて訳されていない。当時は,「これは俺が翻訳して日本の読書子に供するべきか」なんて気負いを覚えたものだが,いまとなっては若かったなあと思う。

かくして,懐かしさのあまりロートマンの著書のコピー製本をぱらぱらめくって再読していたら,ふと,太宰治の『女の決闘』の冒頭にある皮肉な文章が頭に浮かんだ ―「大学の時の何々教授の講義ノオトを,学校を卒業して十年のちまで後生大事に隠し持って,機会在る毎にそれをひっぱり出し,ええと,美は醜ならず,醜は美ならず,などと他愛ない事を呟き,やたらに外国人の名前ばかり多く出て…」云々。俺も太宰治に皮肉られる向きかと自嘲の笑いが出た。

ところで,ロートマンは,大学卒業後独ソ戦に従軍した経歴を持つが 1990 年のソヴィエト崩壊後は長年教鞭を取ったタルトゥー大学のあるエストニアの国籍を取得し,1993 年エストニア人として世を去った。もういまや旧ソ連の「ロシア人」はロシア人として一括りにしてしまうと却って失礼な時代になってしまった感がある。パステルナークやら,ブルガーコフやら,スヴャトスラフ・リヒテルやら,かつては「ロシアの詩人,作家,ピアニスト」と俺は呼んでいたけれども,いまはウクライナ人と呼ばないと怒り出す人がいるはずである。時代は変わるものである。

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