先輩の定年に

夏至に入った 6 月 23 日の夜,定年を迎えたH先輩を囲んで彼のこれからの人生を激励すべく飲み会を開いた。

俺が新人研修を終えて,H先輩と同じ部に配属されたころ,彼はとあるシステム開発案件のハードウェア工場でのシステム試験の取り纏めを命ぜられた。配属直後の俺は,ちょうどいいところにいたとばかりに,彼の部下に付けられた。こうして,二人して神奈川県秦野市にある大型汎用機工場の納品検査センターに三ヶ月間籠ることになった。俺はそこで大型汎用機のシステムオペレーション,OS ゼネレーション,サービスプロセッサや周辺機器の操作等々,他の新人が配属早々にはとてもやらせてもらえないようなことを,H先輩の手ほどきのもとで経験させてもらった。顧客先だと月額一億もするシステムで半ば勉強するなんてことは許されないが,納品前の社内のテスト環境なので教育的指導が比較的やりやすかったのである。さらに,試験を進める過程でハードウェア工場,ソフトウェア工場,アプリケーション開発部隊を集め問題解決のためにとり仕切る姿をH先輩に示してもらった。

大学のオケでヴァイオリンを弾いていた彼は,クラシック音楽好きということで,俺とウマがあった。H先輩はモーツァルト,俺はバッハ。H先輩は,がっちりとした体格,角刈りで眼光鋭く,ヤクザないし柔道家みたいなコワモテ外見なのだが,幼少からヴァイオリンを習いクラシック音楽に造詣が深いということ以外にも,話し方の端々に育ちのよさを感じさせる,「超」がつくほど真面目なシステムエンジニアだった。仕事においても,人間としても,本当に信頼のおける人物だった。どんな仕事でもイヤな顔ひとつせずに引き受けるからか,その後,数々のトラブルプロジェクトに投入され,大阪やら,茨城やら,静岡やら,どれだけ長期出張させられて来たのかと,話を耳にする都度に俺は「何,またHさんなの?」と半ば呆れたものだった。

トラブル対応というとH先輩と同様,トラブル対応のプロだった品質保証部の元部長のMさん(すでに定年を過ぎて契約社員として職務を続けている人である)も飲み会に来ていて,俺もたいそうMさんのお世話になったものだから懐かしさも加わって楽しい飲み会になった。Mさんの曰く,「Hは火を噴いたトラブルプロジェクトにぶち込まれると,他の人と違って,火を消すって言うよりも,全焼させることで解決するんだな,これが!」。ディスってんのか,褒めてんのか,わからない言い回し。要するに,全焼させて更地から建て直すくらいの気合いで顧客の言い分に耳を傾け,社内で大赤字を認可させても顧客システムを稼働させたということらしい。俺には就いていけないくらい真面目な人であり,さもありなんと思った。

いまもH先輩がヴァイオリンを弾いている話には感心した。その流れで,うちの副部長がスキューバダイビングが趣味で,毎年夏に沖縄に潜りに行くと言った。部長はゴルフの話を始める。「そういやYさん(俺のこと)ゴルフやらないんですか?今度どうです?」。俺は「ゴルフはやりません。金がかかるので嫌いなんです」とニベもなく答えたのだが,別段不愉快になった感じはなかった。

会社で趣味の話が出るたびに俺は「散歩」と答えることにしている。詩を読んだり書いたりしています,なんてこっ恥ずかしくて口が裂けても言えない。余暇に文学研究や詩作のツールとしての Web プログラミングの日曜大工もよくやる,ってのも仕事の延長線のようでバカバカしくて言えない。ましてや,仕事が趣味だなんてウソ丸だしの歯の浮くようなことも言いたくない。読書,音楽鑑賞,なんてのは趣味ではない。かくして散歩。ちなみに,プーシキン時代のロシアでは「散歩する гулять」という言葉は,女漁りをする,飲み歩く,に類するいかがわしい意味がウラにあった。そう,趣味は散歩。「お年寄りみたいですね」と部長。そう,定年後の終活の準備をいまからしてるんです。歩いている最中に発作で倒れ太陽を眼に焼き付けてあの世行き,が理想です。

というわけで,H先輩を激励しに来たにも関わらず不景気な話をする俺をみて,「やっぱりY君変わらないね」とH先輩は大笑い。先日,ヴァイオリニスト,ドミトリ・シトコヴェツキーを上野で聴いて来た話をH先輩にしたら,「シトコヴェツキーはバッハがいいよね」とちゃんとフォローしている。ここで,会社の同僚とこういう話をもう出来ないのかとはじめて思い至り,俺は寂しくなった。