日本人のドストエフスキイ好きについて

四月一日エイプリルフールの土曜日にちょっと調べもの。帝政ロシアの大作家・ドストエフスキイの長編小説 «Братья Карамазовы»(『カラマーゾフ兄弟』)に出て来るゾシマと作者の宗教観について,ロシア象徴派の詩人・ヴャチェスラフ・イヴァーノフの評論 «Достоевский. Трагедия - миф - мистика»(『ドストエフスキイ 悲劇・神話・神秘』)を読んで,ハッと気づくところがあったのである。その詳細はここでは触れないでおく。

俺はドストエフスキイが嫌いである。その藝術がいかなるものであるかは別として。神について過剰な記述をなす小説家というものを,俺は信用しない。俺はロシアの友人の前でドストエプスキイ Достоебский とおどけて言ってみせて顰蹙を買ったことがある(еб には,ロシア語で FUCK を連想させる語感がある)。

それにしても,日本で出版される日本人の手になるロシア文学関連評論は,そのほとんどがドストエフスキイ論である。バカのひとつ覚えといってもよいくらいである。ドストエフスキイ本しかロシア文学関連書籍は売れないというわけだ。正教徒でもない日本人がいったいどうしてかくもドストエフスキイばかりに惹かれるのか。俺の思うに,日本のインテリ(ぶった人たち)は ― たとえ理解出来なくても ― 何かしら深淵・神秘が感じられる作家にひれ伏す傾向がある。ドストエフスキイ好きが多い理由である。浅はかではなかろうか。

俺はドストエフスキイの高邁なる神学(?)なんぞより,下半身のリアルを採る。浅はか以上に,下劣。それでよい。『エヴゲーニイ・オネーギン』のタチヤーナの性格描写で「いまはダメとは言わぬ」とさりげなく書くプーシキンの描写のほうが遥かに人間的真実を析出していると俺は思う。

というわけで,ヴャチェスラフ・イヴァーノフ全集第四巻の扉を静かに閉じた。