本阿弥書店『俳壇』一月号の巻頭エッセイは,芳賀徹・東京大学名誉教授によるものであった。題して,『クローデルの『百扇帖』— 今に生きる古典の句集』。結論からいうと,日本文学を見下す西欧礼賛日本人インテリによる偉そうな一文を読んで,心底頭に来た。
彼〔クローデル:私註〕は五七五の音節数の規則などからは全く自由でいることができた。虚子が後の(昭和十一年)欧州布教のとき,ベルリンでもロンドンでもむやみに強調したような日本的季語使用の無理難題からも全く独立していることができた。だからこそクローデルのハイクは,花鳥風月と唱して説かれた,島国の小市民(プチブルジョア)的世俗生活の日常のなかで人や物との出会いにおぼえたささやかな幸福,などというものから離れて,もっと高く飛翔し,今なおもっと普遍の光をおびていることができたのではないか。
『俳壇』一月号,本阿弥書店,2016 年 12 月,21頁。強調筆者(俺)。
上の引用で俺が強調表示している部分は,著者の単なる独善的意見である。いったいどの研究者・俳人が俳句の主要な詩的本質を「島国の小市民(プチブルジョア)的世俗生活の日常のなかで人や物との出会いにおぼえたささやかな幸福」などと言っているのか。短文の厳しい制約のなかで,いくつも挙げられるであろう俳句の特性・特徴のなかから言及している以上,芳賀はこれこそが俳句の本質だと考えていると受け取ってよいだろう。これは芳賀の極め付けでしかない。しかも,甚だしくプアーな俳句観であり,こんなのは「年も取ったし日々の感想を俳句にでも詠んでみるか」式の素人趣味の域を越えない。
また,季語の使用にこだわるのは「無理難題」などとどうして極め付けるのか。俳句という短詩文学における季語の構造的機能について,いかなる本質的な理解(安東次男が『風狂始末』などの芭蕉俳諧批評でみせたような,見えないものを見えるようにしてくれる理解)もこの著者にはどこにもみられない。
かくして,著者は,俳句について語りながら,じつは俳句のことはなにもわかっていないと言ってよい。
さらに,著者は,クローデルの短詩と芭蕉の句とは,ジャンルや文化背景がまったく異なるのにもかかわらず,比較の俎上に乗せられるものと勝手に極め付けて論評している。
水の上 に 水の音 葉のうへに さらに葉のかげ (山内義雄訳)
〔…〕これは「神」の偏在の啓示なのか。芭蕉の静寂の名句よりもさらに緘黙,しかも「無一物中無尽蔵」の縹渺たる広がりと深さとを宿す。
「芭蕉の静寂の名句よりもさらに緘黙,しかも「無一物中無尽蔵」の縹渺たる広がりと深さとを宿す」(強調は俺)なんてのは,なんの根拠もない独善的印象である。「『神』の偏在」を感じるゆえの評価なのだろうが,根拠がない。夏目漱石とフェラーリのどっちがより優れている? エンピツとハサミのどっちがより便利? — この比較の無意味さは誰にもわかるが,クローデルと芭蕉となると幻惑されるかも知れない。しかし,文学者なら,詩人なら,皆,相互に対照性をもつとは限らない。ものごとを比較するときは明確にその論点の妥当性を示すべきなのだ。なにをもって「芭蕉の静寂の名句よりもさらに緘黙」なのか? これは「芭蕉をディスっているだけだ」と捉えるのが常識的受け止めではなかろうか。
芳賀はどうしてこのような根拠のない断言が出来るのだろうか? 二頁しかないこのエッセイからはわからない。しかし,このマナーは,思うに,西欧文学のビッグネームに対する無批判的欧州礼賛日本人の典型である。いまこの平成という時代 — 日本の文化が,俳句という特殊短詩形や能楽といったかつての伝統文化的観点(言わば「東洋の神秘」エキゾチズムが主な観点)のみならず,春画やアニメ,ポルノグラフィといった淫靡・通俗の大衆文化を含めて,旺盛な欧米人の真摯な研究対象となっているこの現代 — にすらこうした西欧礼賛大学教授が日本の文学研究の頂点(一応,東大ですから)にいるってか? それこそ,俺からすれば,「島国の小市民(プチブルジョア)的」インテリの伝統的滑稽そのものである。
俳句の詩的・歴史的構造についてまったく理解がないにもかかわらず日本の俳句の文藝的価値を貶める,ないし否定する西欧文学礼賛者の魁は,おそらくフランス文学者・桑原武夫である。芳賀徹は,上記引用のとおり,俳句の主要な詩的本質として「花鳥風月」「世俗生活の日常のなかで人や物との出会いにおぼえたささやかな幸福」などというものを上げて貶める時(「プチブルジョア的」なる用語は全否定を示すからだ),一方で「もっと高く飛翔し,今なおもっと普遍の光をおびている」クローデル,ひいては,「ルネサンス以来ひたすら哲学的・人生論的・神学的思弁を繰り返していたヨーロッパ近代詩」(同書,21頁)を対置して,西欧を礼賛している。これはまさに桑原武夫の基本スタンスと同じで,戦後の日本文化誹謗大好き文学研究者の一貫した特徴だ。どちらも俳句というものがまったくわかっていないにもかかわらず堂々とやっているんである。
それにしても。日本文学に対して偉そうなクチをきく日本人フランス文学者が多いのはどうしてなんだろうか。これ,日本では昔からの珍現象なんである。フランス文学の識者であることは十分に認める。しかし,よくわかってもいない専門外のことを自分の専門の視点からのみ論い,貶めるなんて恥ずかしい行為をどうして出来るのだろうか。これ,テレビの無責任なコメンテーター — 芸人・大学教授としては一流かも知れない人物が,世の中の多様な現象について対象を熟知しないままにとやかく意見するような — とまったく同じではなかろうか。おフランスの文学の専門家であることがそんなに偉いのか。
ちなみに,桑原武夫がなぜ『第二芸術』の俳句ディスカウントで成功したか。それは,俳句という何百年も続く伝統文藝に対して西欧近代文学の観点で攻撃するというアンフェアかつ下品極まりないやり口が,それ自体人目を惹いたからに他ならない。なんのことはない,現代兵器で武装した自衛隊が戦国時代の軍勢と戦うという,歴史的観点を無視した映画『戦国自衛隊』と同様の荒唐無稽である。芳賀の文章もまた「むやみに」,「島国」,「と唱して」,「小市民的」,「ささやかな」など癇に障るイヤらしい蔑んだ表現で,桑原とまったく同じ意味で,俳句に関わる者に対して礼儀を欠いている。「欧州布教」なんて言い方は,まるで俳句というものがいかがわしい新興宗教のようなものだと言外で蔑んでいる。こんな下品な物言いをする学者先生の一文を読んで,怒りを覚えない俳句愛好家がいるだろうか。
ところで,桑原は戦時中の戦争プロパガンダに協力した文学者の責任を糾弾して注目を集めた。俳句否定と戦争翼賛文学者否定という桑原のふたつの活動は,戦前の日本文化を徹底否定する時代風潮(ただし,この自虐文化観はいまだに存在する)の現れに過ぎない,桑原はその言説の真実性で評価されたというよりもむしろ戦後の時流に乗ったに過ぎない,というのが俺の見立てである。戦後,戦勝国の文化的奴隷に成り下がったわが国のインテリは,戦争に加担した人たちを徹底的に貶めることで,己を理性的・自由主義的・民主的に見せることが主流になった。こういう,過去の日本を貶めるのが「賢そうに」見えると思い込んでいるようなところが,現代日本の知識層の悲喜劇である。
でもな。自国が戦争をしているのに,それに協力しない国民っていったいなんなんだ? 父や兄が戦地で国や家族の護持のために命を張っているなかで,戦争に協力したことは文学者としてどこに恥があるのか? 文学者の戦争責任を問うような人たちはいったい何様なのか! 斎藤茂吉や高村光太郎のような,若者を戦争に駆り立てた詩人よりも,戦時中は象牙の塔に籠って何も発言しなかった桑原武夫のような野郎のほうが,俺的にはもっと醜い。で,この文脈で桑原武夫の現代的正統のような芳賀徹の自虐的日本文学史観(いまだに!)を改めて考えると,東大というところがいかにくだらないエセリベラルインテリの集まりかという印象を覚えてしまうんである。