サティ生誕 150 年,吉行淳之介『驟雨』

午后,ある省庁システムの契約書に添付する仕様書のレビューのために,日本橋兜町の事務所に向かった。そこは私がこの三月まで所属した部署の事務所で,ま,ひと月余りの時間を置いた出張だったわけだが,四月の大掛かりな異動のために,事務所に入ったプロジェクトがガラリと入れ替わっていて,「人事は移ろう」の感を強くした。契約やその後の作業条件に大きく影響する文書のレビューだったので,現物の内容を確認しつつ,チェックリストに従って記載事項の漏れがないか確認した。

日本橋兜町に赴く途中,新橋で昼食を取るために下車したら,恒例の古本市が開催されていた。電車のなかで読む手持ちの本を読了したところでもあり,十分程度の余裕があったので,ぶらぶら古書を見て歩いて,文庫本二冊を購う。一冊は吉行淳之介の『原色の街・驟雨』,いま一冊は菊村到『赤い闇の未亡人』。ともに芥川賞受賞者の作品なんだけれども,どちらも文藝色の強いエロ小説である。菊村到は『硫黄島』のような戦争をテーマとした力作で芥川賞を受賞したあと,エロティック路線の推理サスペンスにシフトしていった作家である。私自身は,確かな筆力に支えられた後者のエンターテイメント作品を好むクチである。

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ERIK SATIE - Je te veux , Philippe Entremont/Piano

帰宅して,エリック・サティのレコードを聴く。フィリップ・アントルモンのピアノによる 1979 年の録音による CBS アナログ盤である。今年の,そしてつい昨日,五月十七日はサティ生誕 150 年の記念日でもあり,久しぶりに針を落としたんである。『ジムノペディ』,『グノシェンヌ』について,彼の演奏がいちばんの好みなんである。その他,『きみがほしい Je te veux』,『最後から二番目の思想 Avant-dernières penseés』などおしゃれな小品が収録されている。このアナログ盤はいまでは CD として再発売されていて,容易に入手出来る。

サティを掛けながら,今日買った吉行淳之介の『驟雨』を読む。「その女を,彼は気に入っていた。気に入る,ということは愛するとは別のことだ」という,その気に入った娼婦との関わりにおいて,主人公・山村は,相手の感情を忖度したり,その反応に傷ついたり,「軀を売る稼業」の女の言う「今度お会いするまで,わたし,操を守っておくわね」という言葉に苛立ちつつ動揺したり,様々な感情を交錯させる。言わば,得体の知れない,淫らでかつ慎み深い美貌の商売女を前にして,自家中毒を発症しているような理屈っぽい男の,心理小説である。この作品の視点はあくまで男のものであって,しかも原則として娼婦を蔑む感情から揺れ動くところがインタレストになっていて,私の感想からすれば,徹底的に男の勝手な上から目線が根底にある,昔の小説という感じである。

この娼婦・道子をAKB48の人気タレントに,娼婦の売り物である性戯をAKB48握手会の握手に,置き換えてみると,その滑稽さがはっきりする。娼婦もAKB48も,多くの男たちに共有される存在であり,その行為そのものがどちらも売り物=「芸」であると考えると,『驟雨』主人公・山村の感情の振幅は,ほかならぬ道子がズバリと言うように「あら,ずいぶん取り越し苦労をしてるのね」ってなもんや。AKB48のそれほど熱心でないファンがたまたま握手会でアイドルと身近に「触れ合った」ことによって,手ェ握っちゃったよー,もしかしてオレって彼女に恋しちゃった? もしかしてあの笑顔,オレに気があるかも? でも他の男たちも同じかもなあ,んー? んー!ってな具合でディープなファンとして嫉妬や熱愛のひきこもごもでもってハマって行く姿とあんまり変わりがない。そしてそのうち歳がくれば,あれ何だったんだろう,なんである。娼婦・AKB48人気タレントからすれば,「あら,ずいぶん取り越し苦労をしてるのね,お客様!」でしかないのに。

もちろん,『驟雨』の主人公の心理はこんなAKB48ファンとはまったく趣が違うので,私の描くパラレルは構造が同じというだけの冗談ではある。吉行ファンには申し訳ないけれども,私にはこのパラレルは同じに見えて笑ってしまうのである。

ま,「娼婦に恋をしたのだ」ということがクールな小説として成り立った時代だったということなのだと思う。やはり,私には永井荷風の『濹東綺譚』のお雪と同様,主人公の心理の動きよりもむしろ,ここまで男を翻弄できる芸を身に着けた女主人公の女優精神に惚れ惚れしてしまう次第である。そういう意味で『驟雨』は面白かった。背景に流れるエリック・サティの瀟洒な軽やかさには,まったくそぐわなかったのだけれど。

と,ぐだぐだ書いていると,妻が帰宅。俳句・短歌関係の出版社に勤める妻は,今宵,俳句結社のパーティーに招かれて出席して来た。そこで貰った花を机に飾ってくれた。パーティーで来賓の出版関係者ということで急遽スピーチを求められたらしい。こういうこともあるかも知れないと,妻は,その結社の発行する結社誌に予め眼を通し,眼に留まった俳句を取り上げつつ綴ったスピーチ文の紙を持参していた。それを見ながらスピーチしたという。「だって,突然スピーチを振られて,気の利いた空中戦が絶対できない性格だから」。こういうところは本当に凄いと思う。突然スピーチを乞われて卒なく気の利いたことを言える人よりも,己の限界を知りきちんと準備して来た紙を読み上げる人のほうが,聞いている人からも,予定外でスピーチを要求した主催者側からも,数倍好感度を得られると思う。

 
サティ:きみがほしい
アントルモン(フィリップ)
ソニー・ミュージックレコーズ (1996-10-21)