MOONSTONE — 開高健ノ珠玉ニ寄ス

四月十四日,清明末候,虹始見(にじはじめてあらはる)。桜はほぼ散ってしまった。花冷えというのか,冷気の快い,澄んだ上弦の夜。JavaServlet Web アプリケーションのデバッグにも疲れた。俺はジンにレモンを絞り入れ,オンボロのディヴァンで,地べたに乱雑に重ね置いた本の塊から一冊の文庫本を手に取った。

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開高健『珠玉』,文春文庫,1993 年刊。これは作家の遺作小説である。アクアマリン,ガーネット,ムーン・ストーンの輝きを巡って,人生の記憶を結晶させた,一種独特の文学的変奏曲集ともいえる作品である。まさに珠玉の名品である。開高が亡くなってそのショックの冷めやらぬころにこれを読み,日本文学の一時代の終焉を感じたものである。

アクアマリンの底のない青い煌めきに己の半生の喪失感を投影して号泣する登場人物・高田先生のように,俺も『珠玉』を読んで,開高健という現代日本を代表する作家の魂の彷徨に思いを馳せ,涙を禁じ得なかった。

飛ばし飛ばしページを繰るうち,ムーン・ストーンの白濁の妖しい光輝に情欲を掻立てられる。携帯電話からいつもの番号に発信して,Mを寄越すよう依頼する。

事務室の開け放した西側の窓から,ちょうど四十五度の角度に弦月が鮮やかに見えた。事務机の白熱灯ひとつの薄暗い仕事部屋。俺の吐いた煙草の煙で月が霞んだかと思うと,いつのまにやら部屋に紛れ込んだ蛾が,紫煙の帯を掻き乱して,Mac のモニタの端にぴたりと止まった。春気が重くのしかかって来た。音のない夜になった。

ふと気づくと,いつからか,髪の長い女が扉の傍に立っていた。「こんばんは。お待たせ」— 俺と目があってからはじめてMはそう言った。出かけるとき以外鍵をかけないのを知る彼女は,俺の仕事部屋兼寝室兼食堂に勝手に入って来る。俺は近づいて,持っていたジンを立ったままの女に一口飲ませ,女の口を吸う。そして,乳房をつかむだろう。

寝台でMと交わる。上弦の月。青白い月光と一点のスタンド光とに照らされて,モニタにへばりつく蛾の鱗粉が,室内を漂って,ゆっくりと,ゆっくりと,拡散してゆくのが,俺の目にはっきりと見える。それが部屋を満たそうかというとき,女が腰を震わせた。そして俺は,高波を迎えるまさにその瞬間,ペニスを抜いて女の胸に精液を迸らせた。

荒い呼吸で大きく上下する乳房のミルクティ色をした乳首に寄り添って,白い艶やかな液体が月の光を集めている。月長石。それを指で掬い採りMの唇に擦り付ける。女の唇を,鼻孔を,耳を,瞼を舐めまわす。

 
    MOONSTONE — 開高健ノ珠玉ニ寄ス, Apr. 16, 2016.
 
  淸明花落上弦昭  清明 花落チテ 上弦 アキラカナリ
  蛾翅舞罷烟帶撩  蛾翅ガシ 舞ヒツカレテ 烟帯エンタイ ミダ
  長石乳輪遒月曜  長石ノ 乳輪 月ノヒカリヲ アツ
  欲勝重夜倦勞潮  ヘント欲ス 重キ夜ノ 倦勞ケンラウウシホ
 
 
 清明の時候 すでに花は散り 上弦の月がくっきりと出ていた
 蛾の翅が飛び疲れて止まり 煙草の煙が乱れた
 月長石の乳輪は 月の光をあつめている
 重い夜 押し寄せる疲れの波を 持ち堪えようとした
 
(1) 詩格: 七言絶句平起式平韻正格
(2) 韻字: 昭・撩・潮(韻目: 下平聲二蕭)
(3) 平仄スキーマ:
 
 
* * *

漢詩を LaTeX でも組んでみた。これを拙作漢詩集『狂溟集』(文集版漢詩のみ版)にも収録した。組版結果とその原稿を掲載しておく。

20160417-moonstone.png
% -*- coding: utf-8; mode: latex; -*-
% 狂溟集 - MOONSTONE, Apr. 16, 2016.
% 2016(c) isao yasuda, All Rights Reserved.
% $Id: moonstone.tex 36 2016-04-17 10:49:59Z isao $
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\usepackage{okumacro}% 奥村先生マクロ (マクロ名重複のため sfkanbun.sty より前)
\usepackage{sfkanbun,furikana}% 漢文訓点・縦組振仮名パッケージ(藤田先生)
\usepackage{plext}% pTeX 縦組拡張
\usepackage{pscyr}% PSCyr Cyrillic fonts
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% 作詩年月日
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% Copyright 表示
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  \hfill\copyright\ \raisebox{0.308em}{2012--2016, \textit{isao yasuda.}}}%
% 漢文訓点音号符を長音(標準)から全角ダッシュに変更
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% okumacro \ruby 命令の親字とルビの間隔を少し狭める
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% レイアウトパラメータ調整
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% タイトル,作者,読み,送り仮名,返り点,書き下し文を手作業で変更する
% 返り点は,レ,三,二,一,\ongofuni から選択する
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{\hfill \saku{Apr.}{16}{2016}}
& 開高健ノ珠玉ニ寄ス \cr
%淸明花落上弦昭
%蛾翅舞罷烟帶撩
%長石乳輪遒月曜
%欲勝重夜倦勞潮
% 第一句
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\kundoku{\CID{13666}}{}{}{}%
\kundoku{落}{}{チテ}{}%
\kundoku{上}{}{}{}%
\kundoku{弦}{}{}{}%
\kundoku{昭}{}{ナリ}{}%
& \kana{\CID{08521}}{セイ}\kana{\CID{14052}}{メイ} \CID{13666}落チテ %
\kana{上弦}{ジヤウゲン} \kana{昭}{アキラカ}ナリ \cr
% 第二句
\kundoku{蛾}{}{}{}%
\kundoku{翅}{}{}{}%
\kundoku{舞}{}{ヒ}{}%
\kundoku{罷}{}{レテ}{}%
\kundoku{烟}{}{}{}%
\kundoku{帶}{}{}{}%
\kundoku{撩}{}{ル}{}%
& \kana{蛾翅}{ガシ} \kana{舞}{マ}ヒ\kana{罷}{ツカ}レテ \kana{烟帶}{エンタイ} %
\kana{撩}{ミダ}ル \cr
% 第三句
\kundoku{長}{}{}{}%
\kundoku{石}{}{ノ}{}%
\kundoku{\CID{13968}}{}{}{}%
\kundoku{輪}{}{ハ}{}%
\kundoku{遒}{}{メ}{二}%
\kundoku{\CID{13746}}{}{ノ}{}%
\kundoku{\CID{14077}}{}{ヲ}{一}%
& \kana{長石}{チヤウセキ}ノ \kana{\CID{13968}輪}{ニユウリン}ハ \CID{13746}ノ%
\kana{\CID{14077}}{ヒカリ}ヲ \kana{遒}{アツ}メ \cr
% 第四句
\kundoku{欲}{}{ス}{レ}%
\kundoku{\CID{13829}}{}{エント}{}%
\kundoku{重}{}{キ}{}%
\kundoku{夜}{}{ノ}{}%
\kundoku{\CID{7674}}{}{}{}%
\kundoku{勞}{}{ノ}{}%
\kundoku{\CID{13932}}{}{ニ}{}%
& \kana{\CID{13829}}{タ}ヘント欲ス 重キ\kana{夜}{ヨ}ノ %
\kana{\CID{7674}勞}{ケンラウ}ノ \kana{\CID{13932}}{ウシホ}ニ \cr
\end{kanshiyomi}
 
\vspace{2zw}
% 現代語訳
\begin{quote}
清明の時候 すでに花は散り 上弦の月がくっきりと出ていた\\
蛾の翅が飛び疲れて止まり 煙草の煙が乱れた\\
月長石の乳輪は 月の光をあつめている\\
重い夜 疲れた波を 持ち堪えようとした
\end{quote}
\cpright
\end{document}