日影丈吉『吉備津の釜』

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東京・両国の江戸東京博物館で『大関ヶ原展』を観た帰り,なんか,歴史幻想のような想像にいささか取り憑かれたような感じで,両国橋の上から隅田川の遊覧船を眺めた。ふと,日影丈吉の短篇小説『吉備津の釜』を思い出した。妻に「日影丈吉の『吉備津の釜』って作品あるよね。なんか遊覧船みてたら思い出したよ」と言って,その筋を話した。

事業に失敗し金策尽きた主人公・洲ノ木は,新橋の酒場で川本という男と知り合いになる。川本はその友人である山崎という資産家に宛てて,洲ノ木への資金援助の紹介状を書いてくれることになる。藁にも縋る思いの洲ノ木は,その紹介状を手に山崎のもとへ赴く途中,絶望の淵にあってわずかに残った安堵感から,隅田川の水上バスに乗る。昔のことが感傷的に頭を駆け巡る。と,水上バスの客に昔の知り合いの山師に似た人物を認め,その山師が語った物語を思い出した。

それは,ある剛胆な船乗りが見知らぬ者からその知り合いに手紙を届けてくれるよう言付かるが,その手紙には船乗りを殺す依頼(「川の仲間にゃ手に負えぬ,陸 [おか] の仲間が殺ってくれ」)が書かれていた,という物語だった。船乗りは,その死相を察した僧の機転によって救われる。その手紙をそのまま持って行っていたら,船乗りは受取人に殺されていたはずだった。

これを思い出して,船乗りといまの自分の立場との暗合を感じた洲ノ木は,山崎への紹介状に何が書かれているのか,気になってどうしようもなくなる。紹介状を開封してしまったら,川本の善意が一瞬にして無に帰する。悩みに悩んで,とうとう洲ノ木は開封してしまう。果たして紹介状は白紙だった。しかし,洲ノ木はただ揶揄われたのではなかった。—『吉備津の釜』のその後の不気味な顛末は,ぜひ作品を読んでいただければと思う。「川の仲間にゃ手に負えぬ,陸 [おか] の仲間が殺ってくれ」— 「川」本と「山」崎という名はこの暗合をほのめかす洒落でもある。

『吉備津の釜』の洲ノ木も,両国のちょうどこのあたり,横網から吾妻橋の付近で,隅田川に黄菊の束が流れているのに目を留めてから,過去の幻想に入り込んでしまった。隅田川は江戸,東京の文学幻想の宝庫なのである。