アルトゥル・シュニッツラー『夢奇譚』

「こんな夢を見たの。若いハンサムな男とベッドで裸でいちゃいちゃしながら,遠くにいるあなたが通行人に物乞いをし,蹴飛ばされ恥ずかしめを受けるのを,二人で大笑いしながら見ているの。なんでそんな夢を見たのかしらね」— 自分の妻ないし恋人にこんな話をされたら,男としてあなたはどうお思いになるだろうか?

この女,うわべは俺を好いているように振る舞いながら,心の底では俺を裏切っているに違いない。あるいは,こう思うかも知れない — 本当は若い男が好きで,俺をバカにして,いま俺といる身の上を情けなく思っているんだ,と。でも,思うに,こういう反応は,夢というものは「本当の」潜在意識の内在論理的な発露である,との「思い込み」(フロイト以降,人口に膾炙したとも思われる発想)によって来るものである。

一九世紀ウィーン世紀末を体現したオーストリアの作家,アルトゥル・シュニッツラーの『夢奇譚』(1925-1926)は,まさにこうした夢の表象と欲望とがもたらす現実意識の歪みを描いた小説である。シュニッツラーがこの作品を書いた時代は,かのジークムント・フロイトが『夢判断』を書いて,概して性的な潜在的願望の無意識的暗喩としての夢の精神分析を世に問い,知識人に影響を及ぼしつつあったころである。シュニッツラー自身も 1900 年初版が出てすぐ『夢判断』を読んで,日記でも大いなる関心を寄せていたという。

『夢奇譚』の主人公・医師フリードリーンは,まさに『夢判断』の精神分析の説に従うかのように,妻アルベルティーネの夢(冒頭でしるしたようなたぐいの夢)の告白に,浮気への肉体的欲望と己への精神的裏切りを読み取る。一方で,彼はある偶然から夜中に危険な秘密クラブパーティーに忍び込む事態になり,そこで仮装した男たちと顔をヴェールで隠すほかは素っ裸の女たちとが乱舞するなかで,一人の女に魅せられてしまう。これはあたかも夢のような恐怖の入り交じった現実である。秘密会員のみが許される退廃的集いに無断で忍び込んだことがバレてクラブの私刑を受けようかというところで,その顔も見えない裸体の謎の美女が彼の身代わりを申し出たために,彼は救われ,パーティーから無傷のまま追い出される。翌日,とある美貌の男爵夫人がホテルで変死し,それはまさにあの謎の美女が彼の身代わりとなって殺されたのだとフリードリーンは思い至る。

物語の構造として,フリードリーンの受け止めとして退廃的欲望を無意識のうちに表現しているかのようなアルベルティーネの「夢」と,安定した生活の心のどこかに眠っている男の欲望が引き起こす,フリードリーンの軽率な,夢のような,「現実」のアヴァンチュールとが,パラレルになっている。しかしながら結局は,妻の夢は夢のままでありアルベルティーネは現実としてフリードリーンの妻であることをやめないし,甘美な悪夢のなかにいるような謎の美女を追い求めたフリードリーンは,女が身代わりとなったおかげで何事もなかったかのようにアルベルティーネのもとに帰って来る。作品の終局で,フリードリーンが己の一夜のアヴァンチュールを妻に告白したあとに,次のような夫婦のやり取りがある。

「ぼくたち,どうしたらいいんだ,アルベルティーネ」
 アルベルティーネは微笑んだ。そしてほんの少しためらってから,言った。
「運命に感謝するのよ,あたしはそう思う,だってあたしたち,危ないところを無事に切り抜けたんですもの — 現実でも,夢でも」
「ほんとうにそう思ってる?」
「思ってる。それに,たった一晩の現実なんて,そうよ,その人の一生だって,その人の心の真実と一致するものではないような気がするの」
アルトゥル・シュニッツラー『夢奇譚』池田香代子訳,文春文庫,1999年,159頁。

「現実でも,夢でも,たった一晩の現実でも,その人の一生ですらも,その人の心の真実と一致するものではない」— このアルベルティーネの冷静かつ聡明なことばは,過去の過ちや愚かな妄想に攪乱されながらいま目の前の現実を生きる者に,ある勇気を与える,と私は思う。妻・恋人が,自分の知らないどんな過去をもち,自分の見ていないところで何をし,何を考え,何を「夢見て」いようが,それらは目の前の妻・恋人の心の真実とは別のものである — それらをきちんと区別して(あるいは,それらをまるごと受け入れさえした上で)目の前の現実の人間の姿,その心の真実と向き合うことが大事なのだ,というのだろう。

思うに,こういうところにこそ,フロイト『夢判断』の「学説」に強く惹き付けられながら,決してそれに翻弄されなかったシュニッツラーという作家の,藝術家としての独特のアイロニー,人間の生の実存への凝視がある。

夢奇譚 (文春文庫)
アルトゥル・シュニッツラー 著
池田香代子 訳
文藝春秋