高田衛著『新編 江戸幻想文学誌』は,江戸文学の想像力についてのモノグラフである。1760 年代の作品に焦点を定め,上田秋成,建部綾足,山東京伝,都賀庭鐘,滝沢馬琴の語りにおける幻想的題材の取り扱いをテーマとしている。とくに面白かったのは,上田秋成の「幻語」書法と,江戸の物語作家における「夢」の捉え方とを巡る分析である。
高田衛の謂う「幻語」とは,古典文学の素材たることばが担う文学的意味と,ことばの発せられる局面の外的意味との相克に因って来る幻惑的書法,と要約できる。これだけでは意味がわからないだろうから,もう少し高田の論を紹介しておく。
上田秋成は『雨月物語』を古典的・伝統的和文で書いた。それ自体は明治新時代以前のわが国の文藝においては珍しいことではない。しかし,秋成にあっては,古典的ことば(江戸人においてすらすでに日常性を喪失していた古典的ことば — 高田のタームでは「死語」)に文学伝統の過程で確固として纏わり付いた第二の文脈が,語りの外面的文脈に対し独自の影響を及ぼす,というような,ことばのドラマが自覚的に繰り広げられている。
たとえば,『雨月物語』「浅茅が宿」の零落した農夫,主人公・勝四郎が生計に困ったあげくに,行商人としてひとやま当てて来ると言って,妻にこう約束する —「いかで浮木に乗りつもしらぬ国に長居せん。葛のうら葉のかへるは此の秋なるべし」。これは語りの外的文意としては,「知らぬ国に長居する気はない。葛の葉の反る秋までにはきっと帰る」という意味である。
しかし,高田は指摘する — 古典的文脈にあっては,「浮木」とは「いくかへり行きかふ秋を過しつつ」(『源氏物語』松風帖)乗るべきものであり,しかも「浮気」に通じ,「葛の葉」とは「秋風と契りし人はかへり来ず」(『玉葉集』)に,さらには「葛の葉裏見」すなわち「恨み」に結び付く。すなわち古典語が,語りの外的文意とは真っ向から対立するもう一つの文意 —「夫は旅のうちに他の女と馴れ初めてしまい,結局何年も帰らず恨めしい事態になる」との妻の側からの心情 — を予告するものになっているのである。
恐怖さえ感じるのは,このたった三十六文字の文の表層意味が,薄く張られた皮膜にすぎないことだ。いったん,この一枚の皮を剥げば,おそろしく不吉な逆意味や呪詛が臓物のように流れはみ出してくるという,その構造なのだ。『雨月物語』が怪異談であるのは,幽霊や精霊が登場するからだけではない。
もうひとつ興味深いこととして,高田は,本居宣長の言説を巧みに引用することにより,上田秋成,建部綾足などの 1760 年代の江戸幻視作家にとって夢が第二のリアルとしての独自の位置づけにあったと指摘している。
本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』のなかで,「そもそも源氏物語は,まさしく世に有し事のごとく書たれども,みなつくりものがたりにて,光源氏ノ君といひし人をはじめ,何も何もことごとく,夢に見たりし事のごとくなるを」と醒めた断言をなす一方で「さてしか此物語,すべて夢のごとしといふには,心得の有べきことぞかし」と,物語が心得の必要な特別な「夢」であると含みをもたせて,さらに言う。
そはふるき抄どもには,例のことごとしく,仏ぶみども,又もろこしの荘周が言などを引出して,此世のはかなく常なきこと,夢のごとくなることわりを示せり,といひなされたれども,さる意にはあらず。これはただ,此物語に書たる事どもを,みな夢ぞといふ意にこそあれ,世の中を夢とをしへたるにはあらざるをや。此けじめ,よくせずは思ひまがへぬべし。
この宣長の言説に対し,高田は次のように指摘する。
空無なるものとしての夢現象 — という認識的現実性に立った宣長は,「世の中を夢」と見なす考え方の,教条性や観念性をきびしく拒否するのである。[ 中略 ]
そこから宣長は「夢」の,まったく新しい視角を,すなわち人間の文学的営為との結びつきの展望において示唆するのである。作り物語とは何か。それは範疇的に,実人生・実社会などの「世の中」そのものとは別なものだ,それは「世の中」を基礎としてできている。しかし,それは作者が想像した架空のものだ,という識別において,いわゆる「夢のごとし」というのは,そういう虚なる世界のみに固有な,真実性,美,あるいはそれらへの詠嘆語なのだ,と宣長はいっているのである。
[ 中略 ] ここまでくれば,夢は,それまでとちがった明確な幻視性と虚妄性の自己限定において,逆に文学的な特権をかちとってゆくのは,もう目に見えているではないか。
本居宣長の「夢としての物語」論を,それこそが「虚なる世界のみに固有な,真実性,美」であり「文学的な特権」であるという,恐ろしく modern な “文学の自律的価値論” へと定式化してみせる高田の手腕には,思わず唸らさせられた。強い共感を覚えた。
本書は,思うに,江戸の夢物語 — 明治以降のわが国における西欧文学への追従の過程で長らく無視され,「荒唐無稽,ただの封建的勧善懲悪」などと蔑まれてさえ来た,江戸の幻想的物語 — の内在論理に深く分け入り,その文学的思想を日本文学伝統のなかで位置づけた,素晴らしい研究のひとつである。少し論調がオーバーラン気味になるところもあるにせよ,本書で論じられた作品を片っ端から読みたくなってしまう気持ちを抱かせてくれる,魅力的な江戸文学読書案内でもある。