秋分も末候になり,加えてこの雨もようで,昨日,今日と肌寒い。一昨日,また私は馬齢を重ねた次第で,Facebook でも多くの方から身に余るお祝いの言葉をいただいた。多謝。スパシバ。グラツィエ。メルシ。サンキュ。カムサハムニダ。昨日は,妻と歩いて川崎駅周辺まで買い物に出かけ,妻も十月生まれということもありお互いの誕生日プレゼントを買い,二人だけで — 子供よりも親が大事 — 焼き肉を食って来た。
焼き肉を食いながら,妻(勤務先出版社で俳句雑誌の編集を担当している)から,吉永小百合の詠んだ破礼句(バレ句)の話を聞いた。破礼句とは俳句や川柳の艶笑ジャンルである。もとより,俳句は優美・高尚の連歌から諧謔の自由と新しい風雅とを追究して生まれたものだし,川柳は風刺と時事批判をもって庶民の口に上るようになった滑稽文藝形式であってみれば,両者ともに発生のあり方からして低位の文藝ジャンルである。破礼句は,猥褻表現の諧謔でもって,その低位の文藝伝統においてもとりわけ秘めやかな特殊な位置を占めている。
あの吉永小百合が俳句を詠んでいたのか。しかも破礼句までとは。妻の話で,私もそれを読んでみたくなった。本阿弥書店から出ている俳句雑誌『俳壇』2012年12月号,矢崎泰久『「話の特集句会」交友録—3』という連載エッセイが吉永小百合の俳句を紹介している。吉永小百合は有名人たちの仲間内の句会に参加していた。そこには,黒柳徹子,永六輔,岸田今日子,小沢昭一,冨士眞奈美,山本直純,渥美清などなどの名前が上がっていた。なかにはプロ級の俳句の詠み手もいる。吉永小百合の名がそこにあるのは,やっぱり輝いて見えるんである。吉永小百合は鬼百合(きゆり)という俳号でこの句会に十五句残している。
この句会は芸能関係者仲間という俳句のアマチュアの集まりに依るところから,句会の行方が発散しないよう会則を設けた。「プロは招かない/貶してはならない」等々のアマチュアらしいものだが,なかに「バレ句を詠むよう心がける」というものもあった。ちょっと下がかった句で場を和ませましょうという趣旨である。こういうジャンル的遊びは古来プロ,アマ関係なくわが国の文藝サークルの伝統においては抜きに出来ない要素なのであって,吉永小百合もそれに従ったわけである。さぞ楽しかったんだろうと想像する。
さて,吉永小百合の句をいくつか引用しよう。括弧内は詠題。
鳥交う姿をうつすメコン川(鳥交じる)
夏草の陰に息づく青がえる(夏草)
ひまわりの風さわやかにハンカチ振る(ハンカチ)
川澄みて魚の背きらりとそぞろ寒し(肌寒)
足袋白く舞う女 [ひと] 鼓つ女唄う女(芸人)
ぬくもりをそっと抱きて初雪の降る(初雪)
松茸を喰らひつしゃぶりつまた喰らひ(松茸・バレ句指定)
これ以外の句は『俳壇』2012年12月号を取り寄せてお読みください。引用した最後の句が破礼句。この句だけが旧仮名遣いになっていて,その非日常ぶりが窺える。「えー! あの清純派女優・吉永小百合がこんな猥褻な句を詠んだとは!」と大いに驚く。でも,文藝のまともな読者ならば,この驚きに続いてすぐ健康的な艶笑に興ずるはずである。人間精神の多面的な姿を肯定的に受け容れるはずである。褻(ケ)の要素がいよいよ晴(ハレ)の輝きを増すと考えるはずである。
「表向き」清純派を演じていたのに「じつは」こんな卑猥な人だったなんて幻滅を覚えた,なんて思うのは,子供じみた単純極まりない人物評価である。人物評価を「よい」人か「わるい」人かに倒さないではおれず,単純化しないではおれず,ある要素が先に来るか後に来るかで人物評価を 180 度変えてしまう愚かな見方である。子供は単純でないと理解できないから。長い間サユリストだったけどこの破礼句には幻滅した,という人は,己の子供じみた単純さを恥じたほうがよい。
残念ながら,世の大勢はこんなバカが占めているらしく,ある愚劣週刊誌が悪意をもってこの破礼句を取上げたおかげで,吉永小百合は傷つき,仲間内の楽しいこの句会にも出席しなくなったそうである。
最近,吉永小百合の句のほか「話の特集句会」の句・逸話を纏めた本が出た。リンクを付けておきます。