10月3日,水始めて涸るる秋分・末候。陰。午後からは晴れ間もあり。桜木町みなとみらいの顧客と打ち合わせ。そのあと野毛に足を伸ばし,いかがわしいヘルス店舗に隣接した居酒屋にて呑む。
呑みの四方山話のなかで,AKB48 じゃんけん大会の話題が出た。そうそう,総選挙というのもあったよね。私の子分のひとりが「なんであそこまで盛り上がるのかさっぱりわかりませんよ。大好きなメンバーにたくさん投票したいために何十万も使うバカがいるそうじゃないですか。だいたいアイドルなんかに現を抜かしているのが理解できませんね。ウソとミエのかたまりですよね。な?」と言って,となりの席にいた,かつて「モーニング娘。」に熱を上げていたもうひとりの子分のほうを向いて,「ミニモニテレフォンだリンリンリン」。
「ま,『やり過ぎ』は何についても褒められたものじゃないけど,そう言うな。他人の楽しみを笑うもんじゃない,そっとしておけ」と私。私もかつてはアイドルに熱中する人を理解できなかった。でもいまはまったく違う。むしろ,アイドル畏るべし,である。アイドルにのめり込む人に共感はできなくとも,そのこころは尊重しなければいけない,と強く思うようになった。
もう五,六年も前か。ある日,会社からの帰りに本を買おうと川崎の一大ショッピング施設 LAZONA に寄道したときのこと。川崎駅改札のコンコースから LAZONA 店舗に入り,エスカレーターを下ったところ,惣菜売り場の前で,車椅子に乗った若い女性と,その後ろから車椅子を手押しする中年女性とが目に留まった。車椅子の女性は,首を前屈みに傾げてじっとしていて,表情がない。ダウン症かとも察せられ,私は気の毒に思った。中年女性はその母親か。
その後,私は丸善に行き,ぶらぶら書架を視て歩いた。中公新書の棚で『マグダラのマリア』(マタグラのマリア,やおまへんで!)を立ち読みしているとき,ふと左後方に目をやると,先ほどの二人の女性がいる。中年女性が写真集を開いて車椅子の女性に見せている。ジャニーズ・アイドル,嵐の写真集,マツジュンのワンショットの見開き頁。若い女はうっとりと目を輝かせ,半ば口を開き,愛に充足したかのような表情で頁に釘付けになっている。
なんと幸せそうな顔。じんと来た。先ほどの無表情との違いに,打ちのめされた。その優しい,美しい笑顔に,ほろりと来た。そうだ,アイドルってのは,こういう,人に幸福感を与える決定的な力をもっているのだ,ということを思い知ったのである。
あんな,うっとりとした,幸せそうな,ドラマティックな顔を見せつけられたら,それを直接もたらしたもの,すなわち,アイドルの魅力について,これを腐す・嗤う・からかうなんて不遜な真似が出来るわけがないではないか。芸能界というものがどれだけ虚飾に満ちていようが,じつは金儲けしか頭にないかも知れなかろうが,仮にそうだとしても,そんなのは周縁的なことである。
芸の見かけ倒し云々に皮肉を吐きたくなることももちろんあるが,それよりもなによりも,魅せられている人間の魂のありようそのものは本質的な何かであって,尊いと思わずにはおれなくなった。嵐,AKB48,ももクロ,エトセトラ,エトセトラ,畏るべし,なんである。