谷崎潤一郎全集旧版を読んでいる。昭和三十年代に中央公論社から出たもので,当時まだ作家が存命だったのであってみれば,全集というのは名ばかりで,戦後の代表作『鍵』,『瘋癲老人日記』が未収録である。しかし,新書判の版型は私のような通勤電車で本を読む者にとって扱いやすく,棟方志功によるゴツゴツしたその装丁はたいへん魅力的である。谷崎小説はたいてい読んでしまったので,今回手に取ったのは大正・昭和初期の戯曲。全集第十三巻。そのなかから『白日夢』についてのみ少し記しておく。
『白日夢』は一幕,四場からなる戯曲である。大正十五年九月に『中央公論』に発表された。
第一場は,夏の都会の歯科医院での治療風景。人工的・機械的な医療器具・調度,薬品の無機的な臭気,無表情な歯科医と看護婦という歯科医院の雰囲気。歯痛という不快から解放されたいがゆえの激痛を伴う治療という,パラドキシカルな恐怖感。日常のなかの異様な非日常的状況は,歯医者に痛い目に遇わされた者なら誰しも納得できるだろう。歯科治療の乾いた,殺伐とした痛みへの期待感と,麻酔による陶酔とのあわいに,二人の患者が治療台で白昼夢を視る。
第二場は令嬢・千枝子の幻視。ドクトルと不倫関係にある己を幻想し,その不道徳に対して自責の念に駆られている。しかしながら,一方でその堕落した関係に絆されている。第三場は青年・倉橋の幻視。彼は,ドクトルと淫乱・背徳の不義を働いた令嬢を,大都会の賑々しい街路上で刺殺し,警察に逮捕される。
ドクトルが支配願望のあるサディスティックな愛人である,という妄想が二人の幻視に共通しており,これを軸にして二人の幻が不即不離の内的恋愛関係にあるかのような錯覚を生出す。そこに面白みがある。男と女の想像力はすれ違っている。女は不倫関係に繋がれることにどこか悦びを見出し,一方,男はそんな女の姿を「淫婦」と極め付け,罵り,殺害にまで及んでしまう。不幸な恋愛を巡っては,女はいつでも感情と矛盾した行動を取り,男はいつでも己の極め付けに依って軽卒に振る舞いかつ被害者面をしているもののようである。
街路の中央に令孃の屍骸が仰向けに臥てゐる。屍骸は第一場と同じ服裝をし,髮を振り亂し,襟をはだけ,片膝を立て,足袋が半分脱げかゝり,兩手は握り拳を作つて,左右に伸びてゐる。襟元と手頸に血痕があるが,顏には苦痛の跡方もなく,安らかに眠つてゐるかのやう。皮膚は光澤を失つた純白,豚の白味を連想させる。
[ ... ] が,通行人は誰も令孃の屍骸を顧みない。彼等にはそれが眼に入らないのか,或は屍骸のあることを當然と思つてゐるやうである。そして何人も何人も平氣で街路を通り過ぎたり,商店から出たり這入つたりする。
近代的都会の群衆のなかに埋もれる人間的孤独と,医師・看護婦・患者の気狂いじみたエロティックな死の幻想というモチーフとを組み合わせたところがモダニスティックだと思う。女が裸に近い姿で殺されて倒れているのに,周囲の群衆がまったくそれを顧みない,というシーンには,他者への無関心という酷薄な現代的ドラマを強く印象づけられる。しかも女は「顏には苦痛の跡方もなく,安らかに眠つてゐるかのやう」とある。死のイメージがエクスタシーと結びついている。思うに,ここに谷崎エロティックワールドの本領が発揮されている。
この谷崎の『白日夢』は,現代では紋切型になってしまったサド的エロ医師ものポルノグラフィの原型ではなかろうか。現代日本のエロ医師ものは,金力と権力とを濫用する医者が,看護婦たちを並べて尻を突き出させ,己の一物で次々と「お注射」してゆくような,荒唐無稽の諧謔的ポルノグラフィばかりなのだが(諧謔という点でわが国の「わ印」の伝統的要素は健在なんだが)。
ところで,谷崎潤一郎全集第十三巻を読む契機は,じつは,武智鉄二監督映画『白日夢』(佐藤慶,愛染恭子主演,1981 年)を久しぶりに DVD で再鑑賞したことにもある。奇才・武智鉄二は,谷崎のこの『白日夢』のモチーフに魅せられていたようで,1964 年,1981 年,1987 年と三度に亘って映画化している。私は三本とも,学生のころに映画館で観た。
武智鉄二は,潔癖性に冒され男女の性愛を直視できなくなった現代のPTA的柔弱日本人にとってはもちろん,「藝術的エロス」なんてことを称揚する優等生的映画ファンや,女性蔑視とウソとに塗れた(何故なら,女性の肉体を愛玩物であるかのように扱い,女性の生理を無視して男性の欲望の視点からのみセックスを描いているに過ぎないから)アダルトビデオにしかエロ代金を支払わなくなったお子ちゃまスケベ男にとっても,不快・不潔・不道徳・不条理な唾棄すべきエロ映画監督である。
武智鉄二は女性の裸体の映像は「社会的意味」をもつと明確に主張していた。つまり,エロ映像が,アダルトビデオ(あるいはブルーフィルム)というメディアに専門化された人間の本能的情欲の消費というあり方を越えて,時代に対する怒り,絶望,反抗といった強烈な社会的感情の真剣表現,己の思想の身体的主張にまで高められることがある。これは現代ではもはや理解されない。
私は良識ある社会人・サラリーマンであってみれば,ここではかつて武智鉄二に魅せられたというだけに留めておく。ものごとをフラットに眺めようと思う大人の方は,こっそりツタヤからでも DVD を借りて,武智鉄二作品を観てください。ただし,精神の安定によくありませんので,お子ちゃまは絶対に観てはいけません。
1981 年『白日夢』は,和製ハードコアとして当時大いに話題になり,愛染恭子を一躍スターダムにのし上げたヒット作品だったと記憶する。令嬢・千枝子が全裸のまま真夜中・無人のデパートの女性ファッションフロアで洋服を物色する。衣服が溢れマネキンが服を着ているのに購買客が素っ裸だなんて,なんともファンタスティックなのだ。遊園地のアトラクションで人形に混じって千枝子が痴態を造る。こういった,まったく意味不明な幻想的シーンがたいへん印象的である。
けれども,武智鉄二監督作品の出来としては昔日の感がある。青年・倉橋役の男優の演技が台本ボー読みで,溜息の出るくらいに下手クソだった。佐藤慶の堂々たる演技との対比で,これじゃ女に軽んじられるのも当然やなと思わせるところ,じつは監督の意図だったのかもと勘繰ってしまうくらいだった。80 年代日本映画凋落を示す徒花のような作品である。