赤江瀑『風葬歌の調べ』・『春喪祭』

甲子園の熱い夏。球児や応援団の一生懸命の若々しさに打たれたあと,熱いロマンティックな小説が読みたくなった。謎めいた猟奇的事件に狂おしい恋が織り込まれた物語が読みたい。事件の大団円への期待感と愛欲の官能とで我を忘れたい。で,赤江瀑の『風葬歌の調べ』を手に取った。赤江瀑は泉鏡花賞を受賞した尊敬すべきエンターテナー作家だ。古典的藝術を素材にしたミステリーに官能的な描写を交える物語手法は,学生のころ,私の好みだった。角川文庫から出た『ニジンスキーの手』,『オイディプスの刃』,『美神たちの黄泉』,『金環食の首飾り』など,何冊も読んで,お気に入り作家のひとりだったといってもよい。

『風葬歌の調べ』は,京都を舞台に,古代ギリシアの四足獣形の魔除けのペンダントを着けた者が次々に変死する事件を巡って,古都の過去の堆積した妖気に狂わされる男女の恋と執念を描いている。それなりに面白かった。だけど,二十数年ぶりに読んだ赤江瀑は,学生のころ感じた魅力を失ってしまっていた。ちっともロマンティックを感じなかった。むしろ,古都の名所,古代ギリシア四足獣形の魔除けの石といった形象に,耽美的な妖しい味付けをしているのが,わざとらしい,語りの主体の勝手な思い込みにしか受け取られなかった。だいたい,読者が視ることのできない作中絵画についてくどくどと「古都の歳月を色濃く残している」などと「解説」してくれても,そりゃ好き勝手にできるちゅうもんや。五十になったオヤジは,ただただ,ウソ臭いとしか感じられなかった。もっとうまく騙してくれよ。

京都の人知れぬ歴史を滲ませた道に憑かれた画家・鳴子雄三郎,京都の神社・仏閣・古建築物の門を主なテーマとする作品で人気を博する美貌の女流文筆家・高窓華子,日本の古美術を専門とする大学教授・滝野口一子とその助手・山本圭子,一流の寺院から仕事を依頼される若手女流仏像切金師・野末美迦子,などなど,日本の奥ゆかしい古典的藝術の専門家たちが登場するのだが,どうも彼らの感情が紋切型で,肩書きだけが奥ゆかしいばかりなのである。野末美迦子は二十五歳の若さで仏像制作の伝統を受け継ぐ希有の才能である一方,奔放な男関係でその恋人である主人公・奥澄泰貴を悩ませる。ところが伝統藝道と女としての淫蕩さとを結ぶ内在的関係・論理がまったく展開されないうちに,奥澄は,女の浮気の噂への当て付けのように山本圭子と肉体関係を結び,美迦子に別れを告げる。恋人の浮気は許せないのに,手前は理屈を付けて別の女と関係する,ってアンタも身勝手だね。この内在論理が描かれないがゆえに,そしてその感情(浮気した女は許せない,だから別れる,オレだって浮気してやる)は通俗的に理解できない筋合いではないがゆえに,人物造形が紋切型の域を出ない。よって仏像切金師という設定が,「伝統」という高尚な魔法を打ち出の小槌のように発揮してくれるとでもいうのか,ただの飾りにしかなっていない。さらに,主人公に愛想を尽かされた美迦子が別の男を刺し殺して自殺してしまう,なんて展開は,ただの「キ印」にしか見えない。あなた,切金師の伝統を受け継ぐ高邁な意思の持ち主じゃないの? なのに,男に振られて無理心中? なんでそうなるの? そこまでする妄執はいったい何? まったくわからない。こちらはロマンティック,すなわち人間的生の暗黒のリアリティに打ちのめされたいのに,絵を黒く塗ってあるだけなのである。

アイテムにちょこちょこと耽美的味付けをするばかりで,その雰囲気に頼んで,人物の行動・感情の内在論理の描き込みをしない。こんなくだらない作品手法・構造にどうして学生のころコロっと行ったのか。五十になったオヤジは,わが青春のアホらしさに呆れるばかりである。『春喪祭』はもっとよかったはずだ。ということで,短篇集『春喪祭』徳間文庫版を探し出して来て,これも再読してみた。

主人公・涼太郎は,琵琶をよくする同じ大学の恋人・深美と,牡丹の咲き乱れる五月,はじめて一夜を共にする。女は翌朝なぜか消息を絶ってしまう。それからちょうど一年が経ち,涼太郎は女が奈良の長谷寺近くで万葉集の歌の引用を遺して自殺したとの知らせを受け,その秘密を探ろうとする。寺を訪れた主人公は,牡丹の香りに咽ぶような闇夜に若く美しい僧の亡霊を見,土地の老婆から深美が僧の亡霊に魅入られて破滅したという顛末を知る。『春喪祭』のあらすじはこのようなものである。牡丹の狂おしい花盛りを背景とした,僧侶の霊と女の古代幻想的死(万葉集の死のモチーフ)とのエロティックな点景が,キラリと光る。確かに短篇として佳作だと思う。

でも,男に処女を捧げた翌朝に,フィアンセに捧げる琵琶曲を作るために消息を絶つ,なんて突拍子もない筋書きに対して,なぜそこまでするのかという内在論理を描いていないのはいったいどういうことか。やっぱり深美はただの「キ印」にしか見えないのである。万葉集,長谷寺(『源氏』ゆかりの寺),琵琶という古典的アイテムで脚色されたただの色惚けじゃねえか?

古都,古典文学・古美術という素材頼みの演出に男女の官能的恋愛図を絡ませる手法だけでは,「ロマンティック」は成立しない。和服を身に着けて薪能を観る文化的セレブ男女が出て来るのが定番になっている,スケベ爺作家・渡辺淳一のエロドラマと何の変わりもない。お上品なことでなにより。これは,ドラマ『謎解きはディナーのあとで』について,イケメン・嵐の櫻井翔くんとカワイコちゃん・北川景子さんの容姿だけに現を抜かすのとどこも変わりがない。前者は古典の高級な雰囲気で,後者は俳優の見た目で観客を喜ばせる,そういう違いがあるが,どちらも「素材」頼みという点では変らない。否,文化的お上品さで正当化されているだけ,思うに,赤江・渡辺はもっと質が悪い。否,どちらにしても,たまにはそういう素材だけの軽い楽しみも必要か。

んー,芸や演技は二流,三流でつまらないが,その足首や腰つき,淫蕩な顔立ちに惹かれる女優がいる。赤江瀑はいまの私にとってそのような類いの作家である。老いると,若いころとはまた違った読み方をして,かつての愛着が否定的意見に変わってしまうこともあるわけだ。それでもいまだに赤江瀑は嫌いではない。

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