江戸の漢詩人・柏木如亭(1763-1819)の書『詩本草』は和の食のグルメ本である。校注・解説者である揖斐高がいみじくも述べているように,洋のサバラン『美味礼讃』,中華の袁枚『随園食単』の二著に優るとも劣らない和書である。
如亭は少年期に父母に先立たれ十七にして家督を相続し幕府小普請方大工棟梁(いまで喩えれば政府御用達建築会社社長か)となったが,漢詩に深く傾倒するとともに,吉原遊女買道楽で身代を潰し,家督を譲って,地方に出て詩作を教え詩画を売る遊歴の生活をはじめた。信州,越後,上方・京都,伊勢,讃岐,備中,などなどを訪れる過程で当地の食に舌鼓を打ち,それが本書に結実しているのである。
本書は酒,茶,蕎麦等々四十以上の食の品目について,味の特長,名高い産地,美味なる季節,効用について記している。ほとんどが海産物であり,調理法よりもむしろ食材そのものに対する凝視が徹底している点,和食の本質を見る思いがする。そして当該の食材にまつわる如亭の漢詩が添えられている場合が多く,これが産地の旅情や人とのかかわり,季節の抒情をもって食を彩っていて,「食は文化である」ということがひしひしとわかる文学的グルメ本になっている。この点こそが『詩本草』の最大の美点である。私が就中面白いと思った「河豚(ふぐ)」の一節をあげておく。
河豚(かとん),美 [ 美味 ] にして人を殺す。一に西施乳(せいしにゆう)[ 中国古代の美女・西施の乳房 ] と名づく。又た,猶ほこれ江瑶柱(かうえうちゆう)[ たいらぎ貝 ] の西施舌(せいしぜつ)と名づけ,蠣房(れいばう)[ 牡蠣 ] の太真乳(たいしんにゆう)[ 太真=楊貴妃の乳房 ] と名づくるがごとし。皆な佳艶の称なり [ 名前が優美で色気がある ]。関東,賞するに冬月を以てす。余が「雪園の蘿菔(らふく)[ 大根 ],自づから甘美。春洲 [ 中国江南 ],荻芽(てきが)[ 荻の新芽 ] を生ずるを待たず」の句有る所以なり。
( )内は読み。[ ] 内は本書注に基づく私の訳。
最後の詩句は,日本では河豚は冬が旬で大根とともに食するのが旨く,荻の新芽と合わせて河豚を食う中国・江南のように春を待つことはない,ということ。中国では河豚を西施乳(中国古代の美女・西施の乳房)と称したなんて,河豚の膨らみ・毒に当たって死ぬ美味のリスクと,呉王・夫差を狂わせ破滅させたという西施の乳房・危険極まりない美貌とを,関連づけている点でいたく面白い。うん,今年の冬は,ちょっと奮発して,大根と一緒に煮たふくと汁を食いたくなってしまった。ファムファタール美女の乳房を想像しながら...。
ところで,『詩本草』には食材の蘊蓄とともに「吉原詞」七絶二十首が収録されている。これは竹枝体,すなわち艶詩,吉原遊郭を詠ったエロティック詩である。如亭にとって食は色に通じ,詩に通じ,これらは切っても切れない概念だったようである。食を漁り,色を漁る天性のエピキュリアンの姿を感じる。しかしながら,「吉原詞」を読むと,苦界に生きる花魁のものあわれな(自由意志ではどうすることもできない)隷属的境遇への共感,華美な遊興歓楽の裡にある生活感が詠われていて,如亭は単なる享楽本意の漁色家だったわけではないことがわかるのである。
(12)舞閣 歌楼 繍甍(しうばう)連なる [ 歌舞楼閣の美しい瓦が連なる ]
夜深て処として春情ならざる無し
誰か知らん 戸外秋風の満つるを
明月 橋頭 紙を擣つ声 [ 山谷の浅草紙を打つ音 ]
(13)十載の煙花 [ 苦界十年の遊女生活 ] 儂(われ)を誤了す [ 生き方を誤らせた ]
鏡中漸く減ず 旧姿容
暁窓 酒醒めて歓情少なし
自ら彫籠(てうろう)[ 彫刻を施した虫籠 ] を啓いて小蛩(せうきよう)[ こおろぎ ] を放つ
( )内は読み。[ ] 内は本書注に基づく私の訳。
江戸時代は春本・春画等の性文化が花開いたことは確かだが,だからといって,あたかも性倫理において開放的だったと極め付けるのは短絡というものである。江戸のおおらかな性を称揚する江戸文化ディレッタントがたくさんいるけれども,それは一面的な幻想である。吉原は女が親に売られて身を沈めた苦界だった。その現実的悲哀を詠った如亭の吉原詞は,江戸竹枝体漢詩のなかでもちょっと異質なリアリティを備えているように思われる。
本書は,『詩本草』の本文(書き下し文,白文)が揖斐高の詳細な語注,的確な解説に支えられて,たいへんよい本に仕上がっている。この語注を読むと,訓詁の伝統に立脚した典拠探索の情熱に舌を巻く。学問とはこういう所業を謂うのである。また,漢文であるがゆえに顧みられなくなってしまったこういう上質の本を文庫で出版してくれる岩波書店という本屋にも,改めて敬意を表したくなってしまう次第である。
柏木如亭の作品集は岩波の新日本古典文学大系にも納められている。もっと多くの如亭漢詩を集成した版が安価に手に入らないかと思っている。