ジョルジュ・ロデンバック『死都ブリュージュ』

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国書刊行会がフランス世紀末文学叢書の一冊として 1984 年に刊行したジョルジュ・ロデンバック『死都ブリュージュ・霧の紡車』をほぼ三十年ぶりに再読した。この連休中アンリ・ド・レニエ『水都幻談』を読み,「都市空間の文学」に思いをはせたのにつけ,ロデンバック『死都ブリュージュ』も都市文学の代表じゃないかと思い,手に取って読みはじめた。この作品では,ブリュージュの風景写真が適宜テクストを飾り,作品イメージに視覚的膨らみをもたせている。

私が学生だった 1980 年代は「世紀末」が大流行りだった。国書刊行会はその流行を体現していた出版社で,たいていにおいておどろで悪趣味な装丁・版面の怪奇・幻想文学書を,多数出版していた。この叢書もそのひとつ。ただし,本叢書は国書刊行会にしてはフランス装のちょっとお洒落な装丁であった。怪談やら夢物語の大好きな私は,このシリーズの本が出るとすぐ購入して読んだものだった。

『死都ブリュージュ』(1892 年)を再読して,若かったころの感想と,いまオヤジになってからのそれとの,あまりの大きな差に驚いた。

三十年前は「死都」という言葉自体の世紀末ロマンティシズムにうっとりとし,作品のなかに描かれた人気のない通り,川岸に沿ってひっそりと建ち並ぶ古家,水面のうち沈んだ錯綜する運河,信仰のクロノスが重苦しく堆積した禁欲的修道院,幽邃なる古い教会の鐘の声,などなどで,時間の止まった,活力のない,果てしなく静かな,古色蒼然たる都市イメージを否応なしに恍惚と思い描いて,ロマンを感じたものだった。「死都」たるブリュージュという都市に世紀末的頽廃の憧れを抱いたものである。ああ,ブリュージュに行ってみたい,と。

ところが,いまなら,現実に存在する都市に対して固定的・画一的な形容をなすことを,それ自体「ウソ臭い」とまず真っ先に考えてしまう。「死」というイメージを何にでものべつ幕無しに貼付けたがる世紀末的表象だと。「死都」はあくまで詩人の頭にこびり付いた「プログラム」に過ぎず,実際のブリュージュは東京やパリと大して変わりなく,静,暗,陰,鬱,澱,沈などの「死」のイメージとは対極をなす,活気に溢れた風景もゴロゴロ転がっているに違いないと。この作品のイメージのみを期待してブリュージュを訪れる青臭い旅行者は,まず間違いなく落胆するだろうと。

理想的な美しい妻に先立たれた主人公・ユーグは,妻の死の悲しみを静かに包容してくれる古都ブリュージュで,妻の回想に静かに耽るばかりの生活をしている。そんなあるとき,妻に生き写しの美貌の踊子・ジャーヌが現われる。妻と寸分違わぬ彼女の容姿に衝撃を受けたユーグは,妻の面影を追ってジャーヌを付け回し,彼女を劇団から身請けしてわがものにする。ところが,付合ううちに趣味趣向,気品などにおいて,ジャーヌと妻との違いがいよいよ明瞭になって来る。ジャーヌはユーグの金だけが目当てのガサツな女だった。ジャーヌが妻の思い出の品々を踏みにじるに及んでユーグは激昂し,妻の残した髪でジャーヌを思わず絞め殺してしまう。これが『死都ブリュージュ』の大まかなあらすじである。

この人間ドラマを彩るに,主人公の心象とブリュージュの古都の風景とが交感しあう描写は,奥ゆかしく,美しい。美貌の絶頂における妻の死,その回想のみに余生を費やそうとするユーグの姿は,現実に対する諦念のうちに理想美を己の心の奥深くで反芻する藝術家の自画像のようにも思われ,ロマンティックである。悲劇的結末を含め,若いころの私は陶然と読んだものだった。

しかし。いまの私にはそのようなロマンティシズム,センチメンタリズムはない。もちろん作品の死臭漂う病的な詩の頽廃美を楽しむことができるわけであるが,もう一方で,次なる,むしろ喜劇的ともいえる筋書きをも連想してしまうのである。題して『萌都アキバ』。

 綾波レイの理想美に萌えるアニメオタクが,そのあらゆるキャラクターグッズを収集しては誰にも触れさせずそれらを愛でるばかりの生活をしている。レイみたいな女の子とエッチできたらなあ,と日々悶々としている。
 あるとき彼は,アキバからの帰り,たまたま強引な客引きに引きずり込まれた神田のファッションヘルスで,レイのイメージにぴったりのコンパニオン・まゆ嬢に出逢い,その後夢中で通うようになる。仮に『新世紀エヴァンゲリオン』を実写化したら綾波レイ役として彼女こそ相応しいと確信した。声までレイとそっくりだったのだ。
 彼はヘルス嬢に,お口のサービスなんかよりも,全裸での素股なんかよりも,レイの『エヴァ』名台詞を,エヴァ・メカ搭乗スーツでのレイのコスプレを要求しないではおれない。親から借りた — 返すつもりもない — 金を積み,なんとか拝み倒して,彼女と店外でも会えるようになる。
 しかし,やはり,現実のヘルス嬢はウンコもオシッコもするし,お笑いバラエティテレビやジャニーズのファンだったりもし,どうもお金をいちばん好いているらしく,綾波レイのキャラ・理想像からはほど遠いことがすぐさま明らかになる。ある時オタクは「レイちゃん,キミはエヴァのレイに雰囲気が似てるんだけど,レイより口元がでかいし,おっぱいが垂れているし,んー」とついホンネを漏らしてしまう。
 それにかつんと来たまゆは「何よ,このアニヲタ野郎!」と彼を罵り,オタクのもっとも大切にしているレイ激レア・キャラクターグッズを壊してしまう。オタクは怒りに駆られてまゆを絞め殺してしまう。
 もちろんこのドラマは,主人公の心象とアキバの風景とが交感し合うかのような「萌えー」の描写で彩られている……。

ひたすら己の理想像にこだわり,現実の目の前にいる女の性格・心情・行動の内在的論理にはまったく関心がない — この作品構造の本質において,悲劇『死都ブリュージュ』と喜劇『萌都アキバ』とはどこも変わりがない。

『死都ブリュージュ』ユーグの性格は,現在の私からすれば,自分のフィルタを通してのみ世界を眺めているという類型において,『萌都アキバ』オタクと同じに見えてしまう。ロデンバック作品は,徹頭徹尾,ユーグないし語り手の視点からのみ進められ(老女中・バルブの傍系物語は別として),ジャーヌの性格が画一的な踊子・娼婦の形象の域を出ず,二人の主要人物の性格的あるいは心理的な相剋ゆえの悲劇性を欠いている。

その意味で『死都ブリュージュ』は,ミハイル・バフチンの謂うところのポリフォニー的小説ではなく,「死都」という観念の支配する,単一の詩的フィルタに立脚する,モノフォニー的詩である。

かくして,齢五十の『死都ブリュージュ』再読は,神田ヘルス嬢の哀れな — というのも,綾波レイを想起させる見た目でしか判断されず,親兄弟がいることすら思い描いてもらえないまま,モノ(キャラクターグッズ)以下の扱いで殺されるのだから — 死とごっちゃになってしまい,どっちらけに終わってしまった。ジャーヌ,まゆがかわいそう。

私の歳の取り方は間違ったのだろうか。

死都ブリュージュ・霧の紡車 (1984年) (フランス世紀末文学叢書〈8〉)
ジョルジュ・ロデンバック
国書刊行会
フランス世紀末文学叢書 8 (1984年)